「先回り、強制」は嫌いになる、「後回り、驚く」は楽しくなる
管理教育、偏差値教育を受けていた世代は、「子どもは勉強嫌いな生き物」であると信じている人が多い。このため、嫌いな人間に勉強さすには強制するかほうびで釣るかしないと決して勉強することはない、と考えがち。しかし私は、人間は本来、学ぶのが大好きな生き物だと考えている。
赤ちゃんの学習意欲は凄まじい。短期間に言葉や歩行を習得する。失敗しても失敗しても、何度もトライしてマスターしてしまう。こうした高い学習意欲、多くの子どもは小学校入学まで続く。入学式には「勉強頑張りたいです!」と高らかに宣言する子どもの姿が微笑ましい。
しかし多くの子どもが、小学校入学を境に勉強嫌いへと変化していく。強制されるから。比較されるから。成長に驚かれることがなくなり、欠点を指摘されるようになるから。
小学校以前は、勉強を強いられることが少ない(受験で躍起な場合は別)。子どもは気の向くことをどんどん吸収する。急速に学びを深めていく。
また、子どもが興味を持つ分野は様々なので、比較されずに済むことが多い。昆虫に興味を持つ子もいれば、恐竜や宇宙、花に興味を持つ子、様々。自分の好きな分野を好きなだけ、自分のペースで学べる。だから飽きがこないし、とことん学べる。
また、親は「できなくて当たり前」と考えているから、昨日できてなかったことが今日できるようになったり、知らなかったはずのことを知るようになったら、驚かされることになる。子どもはそれが嬉しい。自分の成長で親を驚かす。これが楽しい。さらに驚かそうと、ますます学ぶ。
しかし小学校に入ると、学ぶ内容は全員共通のものに固定。しかも宿題は強制(そうでない小学校も増えている)。自分のペースで学べないのは学びではなく勉強(勉(つと)めて強いる)になってしまう。子どもはこれが嫌い。やがて、強制される勉強を嫌いになってしまう。学ぶことを放棄してしまう。
同じ内容を学ぶから比較しやすくなる。比較されやすくなる。トップクラスの子はそれで鼻が高く、学習意欲も維持されるかもしれないが、大半はその子の下風に立つことになる。面白くない。勉強したら比較され、下に見られるなら、そんな勉強なんかしたくない、となるのは当然。
幼児の間は「できなくて当然」と大人も構えているので、子どもも失敗を気にしない。何度もトライしてそのうちマスターすればよいと考えている。
しかし多くの親が、テストの点数を気にするようになる。そして点数が悪いとそのことを指摘する。知らなかった漢字が書けるようになったのに、そこは無視。
できないところばかり注目され、できるようになったことには目もくれない。親が驚いてくれなくなり、できないことへの苛立ちばかり子どもは感じ取るようになる。結果、子どもは学ぶ原動力を見失い、勉強嫌いになる。親はそれを見てさらに強制するようになり、ますます嫌いになる。悪循環。
息子が幼い頃、海辺で立ちすくんでいた。打ち寄せる波に戸惑っていた。
「大丈夫だよ、さあ行こう」と手を引いたり、背中を押したりすると恐怖を感じ、かえって海から遠ざかってしまった。
「ああ、私の小さい頃と同じだな」と思った私は、海をじっと見つめている息子の隣に立った。
息子がほんの少し前に出ると、私も同じだけ前に進んで横並び。それを繰り返しているうち、波が足を洗った。息子は驚いて後ろに下がった。私も後ろに下がって、息子と横並びになり、再び一緒に海を見つめた。
やがて、息子は波が足を浸してもそのままとなり、徐々に深みへと進み、胸の高さまで入ったとき。
「やったぜ!」と私とハイタッチ。以後は楽しく海で遊んだ。
息子は海に怯えていたかもしれないけど、それは未体験だったから。興味関心がある証拠に、ずっと海を見つめていた。でも水面の下に何があるのか分からない。関心は強いけど、不安も強い。そんなときに。
手を引かれたり背中を押されると、不安は恐怖に変わる。もし、推奨という名の強制がしつこいと、恐怖は嫌悪に変わる。もしここで「意気地なしだな」などとレッテルを貼られると「ええ、どうせ意気地なしですよ」と開き直り、挑戦する気が完全に失せてしまう。
私は、よく言えば慎重派、悪く言えば意気地なしだった。後者のレッテルを貼られて、憤然として挑戦そのものをやめることにしたことは数多い(大人になってから再挑戦した)。私はそのことを覚えていたから、息子も同じだと気がついたとき、私がしてほしかったことをした。
横に並び、決して息子を急かさないこと。息子が勇気を鼓して一歩前に進んだら「お?」と軽く驚きながら前へ。波が足を洗い、びっくりして息子が後ろに下がってもそれを笑わず、「びっくりしたねえ」と言いながら、私も後ろに。
これを繰り返すことで、息子は私を「勇気を振り絞ったバロメーター」に。
息子が一歩前に進むと、私も横並びで前に。父親の立つ場所は、自分の勇気の積み重ね。また、大人が隣にいる安心感もある。だから勇気を出す気になったのだろう。そして、徐々にとはいえ、息子が前に進む勇気を自ら振り絞ることに私が驚いていたことを感じていたのだろう。だから。
息子は超戦することをやめなかったのだと思う。
もし私が先回りし、「さあおいで」とやると、息子は面白くなかったろう。それでは海に入るのが当たり前とされてしまい、自分が勇気を振り絞っても、大人はそれを当然視するだけ、という「構造」に気づいてしまう。それが子どもは面白くない。
で、私は「後回り」した。息子が先に前に進んだら、少し遅れて前へ、横並びに。常に息子と横並びになるけど、息子が先に前へ。こうすると、息子は達成感を積み重ねることができる。大人に勧められたからではなく、自らの意思でつかみ取ったのだ、と。
私とYouMeさんは、子どもたちが小学校に入った後でも、この「後回り」の接し方を心がけている。子どもが自身の意思で動き出すのを待つ。そして動き出したとき、大人は驚く。すると、子どもは自分から動いた、自分の意思でつかみ取ったという達成感を味わえる。だから挑戦することが楽しくなる。
学校生活では体育が大嫌いだった人が、大人になって市民マラソンや自転車にハマるようになる人が多い。これは誰からも強制されず、比較されなくなったとき、自らの意思でつかみ取るのだという達成感を味わえるからかもしれない。
学校生活では、大人が先回りばかりする。強制もする。比較もする。これでは学びは楽しくなくなり、「勉強」になる。だから嫌いになるのだろう。
大人になり、強制されなくなると学ぶことを楽しめるようになる人も多い。そう、人間は本来、学ぶことが大好きな生き物なのだと思う。
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