「わからない」ところから文章を紡ぐ
このところ、なぜ私の長文を多くの方が読んでくださるのか、言語化を試みてるけど、その第5弾。
「わかったつもりにならない」ってのも大きいと思う。
自分には知識がある、いろんなことが分かっていると思ってしまう人は、ある水準の難しさを持つ文章を書いてしまうようだ。
「この程度の専門用語くらい、オレの読者ならわかってくれなきゃね」とか、「このくらいの難しい言い回しも理解できなきゃオレの読者になる資格はないよ」とやってしまうらしい。それもこれも、自分には知識があり、それを人に教えてあげる立場、という発想を持ってしまうためらしい。
それに対し私は「わからない」の立場をとる。
息子が赤ちゃんのとき、お風呂に一緒に入ってると、蛇口から出る水の糸をつかもうとした。ところがつかめない。息子は驚いた顔をした。
普通なら、水は軟らかいからつかめないのは当たり前だと思い、さらにそれを教えてやろうとするかもしれない。しかし。
私は「わからない!つかめないの、不思議だ!」と思った。改めて水の糸を見ると、なぜ水の流れが落ちるとき、早々にちぎれずに糸のようにくっついているのだろう?と不思議に思う。いつか耐えきれなくなり、水の糸はちぎれて水の粒にバラバラになるのだけど、何が原因なのか、そういえばわからない。
やはりお風呂に入ってて「なんで鏡が曇るんだろう?」と子どもが不思議がった時も、私は「本当だ、不思議だ、なぜ曇るんだろう?」と、わからなかった。もちろん、中学の理科で習った露点だとか飽和水蒸気量とか、いろいろ思いつきはする。でも。
曇った様子をよく観察すると、小さな水の粒が等間隔で並んでいる。このために鏡は曇って見える。まるで、京都鴨川の岸辺に、カップルが等間隔で並んでいるように。でも不思議。なんで水の粒は隣の粒とくっつかずに独立しようとするのだろう?なぜ等間隔で並ぶのだろう?不思議で仕方ない。
私はこうして、わかったつもりになりやすい日常の中でも、わからないことだらけなのを痛感してるので、文章を書くときも「わからない」という姿勢でスタートする。すると必然的に、言葉一つ一つもわかったつもりになることに慎重にならざるを得ない。
そうした姿勢で言葉に臨むと、とてもじゃないけど専門用語とか難しい漢字の熟語とか、「ん?よくわからん」ってなる。「愛」とか「やさしさ」とか、ふだん何も考えずに使ってる言葉も、考えてみると「ん?これ何を意味してるの?」とわからなくなる。
「わからない」というところから思考をスタートさせるから、恐らく私の文章を読む人達にとっても分かりやすいのかもしれない。根底のところ、「ここのところはわかるってしてもいいんじゃないかな」ってところまで降りるから、わかりやすいと思ってもらえるのかもしれない。
他方、「わかってる、知ってる」と思っている人は、「この程度のこともわからんのかね?」「これを理解するための知識も欠けているのかね?」って姿勢が鼻につくのもあって、その人の文章は読みづらいのかもしれない。
私はこうした姿勢を、ソクラテスから学んだ。ソクラテスは「自分は何も知らない」という姿勢で常に臨んだ。だから、本来ソクラテスよりも知識の欠けているはずの若者からも面白そうに話を聞くことができたのだろう。
以前、イノベーションについて講演を頼まれたとき、「どうやったらその分野の目利きになることができますか?」と質問された。その時私は「その分野の話を誰よりも聞きたがること」だと答えた。
たとえばコーヒーの専門家、目利きになりたければ、コーヒーに関する話題なら何でも聞きたがるようにする。
すると、周囲の人みんなが「コーヒーに関するネタがあったらあの人に教えてあげよう」となる。こうして、情報通になるのだと思う。目利きは一見、その分野で知らないことはない人のように思える。でもそんな目利きになるには、誰よりも「知らない」かのように、その話題を面白がることが大切。
知ったかぶりをせず、どんなことでも自分の知らないこと、気づいていなかったことを見つけようとする。すると、知ってるつもりだった事象からも「え?そんなことが隠れていたの?」という不思議が発見され、驚かされることになる。
その驚きが、発見があるから、文章を読む方も発見を追体験し、楽しくなるのかもしれない。「わからない、知らない」という姿勢は、不思議を日常からも発見できるコツとして、面白いと思う。文章を紡ぐ際も、この姿勢があるから発見があり、驚きがあり、喜びが生まれるのだろう。