体験欠乏症
「お金もらうわけにいかないし、晩飯だけ食べさせて」という約束で家庭教師をしていたことがある。指導することになったその子の状況について、家族全員に説明していたところ、その子の妹が不思議そうに「なんで文章みたいに話せるの?」と聞いてきた。
その家族の会話は、ほとんど単語で終わっていた。「ねえ、○○は?」「おい、△△しろ」その場の状況から察することができるから、単語で事足りる生活をしていた。状況から察する能力があるのだから、頭は悪くない。ただし、言葉を鍛えられる環境にはなかった。
もちろん家族の誰も、本を読む習慣がなかった。「文章」と出会うのは、学校の教科書くらい。そんな生活環境の中で、私のように「文章」のように論理を組み立ててしゃべる人と出会って、その妹は驚いたようだ。
そのような生活環境で言葉を鍛えることができるかというと、難しい。言葉を鍛えなければ、学校の勉強についていくのも難しくなる。何しろ、単語だけ話せば事足りる生活をしているのに、その単語がウジャウジャと列をなしてる文章なんて、解読は不可能。手に負えない、となるのは無理もない。
では、頭が悪いのかというと、そうではない。すでに指摘したように、状況から察する能力があり、単語をキーワードにして何が求められているのかを理解できるのだから、頭は悪くない。ただし、それを言葉にして表現するという訓練を一度もしたことがなく、言葉として理解した経験もない。それだけ。
私が指導することになったその子は、公立中学校の学年で下から2番目という、学年最下位クラスの立派な成績をとっていたが、その後、メキメキと成績を伸ばし、高校では学年トップクラスの成績を誇り、中堅大学に現役合格した。中学生3年生の頃には、文章的に話せるようにもなっていた。
私が中学生の頃、誕生日パーティーに来た同級生。唐揚げを食べて「こんなにおいしいものを食べたことはない」と言って驚いた。聞くと、家族の誰も料理する人はいないのだという。料理って手作りできるんだ、ということに驚いていた。唐揚げ粉まぶして揚げるだけで、当時、私でもできたのに。
料理をしたこともないのに化学を理解できるかというと、厳しいように思う。中火で油を加熱し、唐揚げ粉のダマを一粒入れて、軽く沈んだ後浮かんでくるなら適温、沈むならまだ低温、いきなり浮かんでシュワシュワするなら高温すぎる。唐揚げ粉まぶした鶏肉を入れ、軽くきつね色に変化したらできあがり。
こうした過程を実体験すると、燃焼という現象、加熱という現象、唐揚げ粉のデンプンが変化する現象、肉の主成分であるタンパク質が過熱により「変性」し、白っぽくなる現象、そうしたものを体感できる。料理は化学、科学の基本。なのにそれを家庭で目にすることさえないのなら、かなりのハンデになる。
また別の子の話。中学生のその子に、垂直のことを教えようとした。ところが、どうも腑に落ちていない顔。野球をしているので、「ほら、バットを地面に立てた時、倒れるまでに一番時間のかかる立て方したときの状態だよ」と言っても、首をかしげて、全然わからない様子。こりゃおかしいぞ、と思い。
「折り紙を一緒に折ろう、ツルの折り方は知っているかな?」というと、首を振る。私が折ったように紙を折るように言った。ところが。四角い折り紙を対角線のところで折って三角にすることすらできない。私が目の前で見本を見せているにもかかわらず。
親御さんに聞くと、「そういえば幼稚園のとき、折り紙を苦手にしているのは気づいていました。でもまさか、中学生になって、半分に折ることさえできないとは・・・」と驚いていた。私は、勉強以前に「この子に体験を積む必要がある」と伝え、料理を一緒にやるように勧めた。
「じゃがいもの皮をむこうとすると、デコボコです。なるべく身の方を削らずに皮だけむこうとすることで、「円の接線」という意味が体で理解できます。ジャガイモの芽をとるには、三角錐に切り出したりしなければならない。すると、三角錐がどんな面で構成されているのかが体感的に理解できます」
「キュウリを楕円状に切るためには、斜め切りにしなければなりません。それを続けていくうち、「平行」とは何か、が分かります。この子はどうやら、図形的感覚を体で理解する経験が決定的に乏しいです。まずはそれを鍛えることから始めましょう」と伝えた。
その子はその後、自動車の整備士になったという。図形が理解できなければできない仕事。中学生の時点で育っていなかった図形の感覚を料理で蓄積し直すことで、図形を理解できるようになったようだ。
別の中学3年生の話。その子は言葉をほとんど発することができなかった。「はい」と、自分の名前を言うことができるくらい。言葉がほとんど話せないから、当然ながら文章を理解することは不可能。平仮名は書けるが、漢字はほぼ壊滅。成績はもちろん学年最下位クラスだった。
ただ、奇妙な点があった。サッカーはキーパーをしていて、レギュラーだという。ということは、頭は悪くない。先天的なものだとは考えにくい。先天的だと片づけたくなるくらいのひどい未発達ぶりだったけれど、そう決めつけられないと感じた。そこでお母さんに改めて来てもらい、話を聞いた。すると。
この子が生まれるかどうかの頃に離婚、働かなければならず、おばあちゃんと一緒に暮らすことに。テレビの前に置いておくと静かに見ているので、テレビに子守りをさせていた、という。心理学の教科書にもある典型的な例だった。テレビに子守りさせすぎて、言葉が発達しなかったようだ。
テレビは言葉をたくさん話すようだが、一方通行。しかし子どもの言語の発達には、双方向が大切。大人が赤ちゃんに言葉を発し、その言葉に赤ちゃんが反応して、その反応を見て大人が別の反応と言葉を返す。こうした相互作用によって言葉は発達する。テレビはそれができない。
「この子は恐らく大人からの声掛けがあまりに乏しすぎて言葉が発達しなかったのでしょう。今からでは受験に間に合わない。ともかく学校に拝み倒して、内申点を上げるようにしてください。君は合ってるかどうか気にしないで、とにかく知っている言葉を書きなさい」という破れかぶれの指導。
すると、ともかくすべての解答欄に何かを書いているという意欲が認められたからか、奇跡的に合格。でも、言葉を聞く能力もなければ文章を読む力も絶無なこの状態では、高校に通っても進学できるはずがない。そこで塾をやめる前、お母さんに来てもらって、二人に次のように話した。
「君は言葉が大変遅れている。だから、高校に入ったら、友達にしゃべらせるな。アーでもウーでもいいから、自分から話しなさい。そして、家に帰ったら、その日あったことをお母さんに説明しなさい。お母さんは仕事でお疲れでしょうけれど、この子のため、毎日話を聞いてやってください」
それから2年ほど、音沙汰なし。ある日、フラリと塾に顔を出してきた。そしてそれまでの間に何があったのか話して聞かせてくれた。高校もサッカーを続け、キャプテンを務めていること、生徒会長に立候補して1年務めたこと、成績は学年トップ、大学進学を先生から勧められたこと。理路整然と。
その子は高校に入ってから、本当に自分から話そうとしたのだろう。そしてその日あったことをお母さんに説明して聞かせたのだろう。その結果、15年もの間、ほとんど発達していなかった言葉を急速に取り戻し、大学に進学できるまでになったのだろう。
また別の子。その子は高校1年生だった。母親が「ぜひ大学に行かせたい」と言って塾に連れてきたのだが、成績を持ってきてもらったらこれまた学年最下位クラス。中学校の成績も持ってきてもらったら、やはり学年最下位クラス。ただ、おとなしいので内申点が高く、進学することができたらしい。
調べてみると、割り算まではできるのだけど、分数は壊滅。そこからやり直すことにした。が、学習以前の問題があることがすぐに発覚した。「このドリル、やっといてね」というと、「はい」といういい返事。ところがしばらくして様子を見ると、目がうつろ。手は当然止まり、空想の世界に意識が飛んでた。
「おい、ドリル」というと、ハッとしてまた取り組む姿勢を見せるのだけど、10秒くらいで再び空想のお花畑に魂が飛んで行ってるのが見て取れた。あー、これではそもそも学習が成立しない。なんでこんなに集中力がないんだろう?いや、集中力がないなんてものじゃない、魂ここにあらず。
親御さんに来てもらい、小さなころ、どんな子だったのか聞くことに。するとご両親が来てくれた。お母さんの説明によると、その子は典型的なおばあちゃん子だったという。孫のかわいがりようは普通ではなく、5歳になっても食事はおばあちゃんがスプーンで口まで運び、着替えも全部やってあげる始末。
どうやらこの子は、自分の好きなようにさせてもらえず、おばあちゃんの意向に従うしかなかったため、せめて空想の世界に魂を飛ばして現実逃避し、時間を潰すしか方法がなかったようだった。その習慣が高校生になるまで抜けることがなかったようだった。
「魂飛ばし」のこの状況を、まず改善する必要がある。ちょっと乱暴かも知れないが、魂が飛んでいる様子が見えたら、「こら!また魂飛んでいるぞ!」とビックリさせることにした。もちろん、本人にあらかじめ了承をとった上で。そうすることで、徐々に魂が「いま、ここ」にとどまるようになってきた。
しかし、分数がなかなか理解できなかった。こりゃ、文字で教えようとしてもダメだな、ということで丸い紙を用意し、これを2分の1,3分の1に切ってみろ、と言って渡した。ところがしばらく、まともに切れやしない。まさに「ケーキの切れない少年」だった。
そんな数日を過ごすうち、ある日、その子はある「大発見」をした。「何分の1にするにしても、円の真ん中に向かってハサミを入れればいいのか!」
余りにも基本的だが、その基本的なことに、高校1年生のその日まで、気がついたことがなかった。聞くと、家でケーキやピザを切った経験がなかった。
その子は、紙の丸や棒をハサミで切って何分割かにするという体験を通すことで、ようやく分数を理解できるようになった。2/3を1/3で割るとなぜ2になるのか、というのも、数字の字面ではなく、切ったピザをいじり倒すことで体感的に理解できた。分数が理解できると、小学校の内容をスムーズに理解した。
しかし中学校の内容に入り、因数分解のところでつまづいた。中学生の内容を理解できない自分に悔し泣きをした。しかしとうとうそれを理解し、克服できると、中学3年生までの数学の内容を理解し終えることができた。あとは、高校の成績も大幅に改善した。
その子は高校卒業したら自動車整備の学校に通いたいと言い出した。給料もらいながら学べるので、競争率が非常に高い。なんと、合格。1年学んで資格を取った。その後、やっぱり生き物が好きだと分かったらしく、酪農の仕事に変えたけれども。
これらの子どもは、先天的に能力が低いとみられても不思議ではないほど成績が悪く、日常での能力も低かった。私も、うまく指導できる自信はなかった。正直、「ダメ元」という気持ちで指導していた。ともかく、不足していると思われるものを見極め、体験を重ねることで補う、という指導。
すると、中学数学をマスターできるくらいの能力まで補うことができた。中学数学さえマスターできれば、高校の授業についていくことも容易になったようだ。しかし、これらの子どもは、中学数学を理解するどころか、小学校の分数ですでにできない場合がほとんどだった。
それを「理解力不足」で片付けるのではなく、理解するための基礎データである、体験が決定的に不足しているとみて、その体験を蓄積するように努めた。すると、理解ができるようになった。理解力のなさは、体験の欠乏であることが少なくないのでは?という気がしている。
私たちの生活は便利になり、昔のように手間暇かけて体験を重ねることが難しくなった。家で火を見たことがない子も少なくない。マッチはおろか、ライターで火をつけたこともない子が増えている。火(燃焼)は、化学の基礎中の基礎の現象なのに。
四角いこんにゃくや厚揚げを対角線に切って三角にする、ウインナーを切ってタコさんにする、大根の皮をかつらむきにする、魚のはらわたをとる・・・料理は、化学、生物、物理を理解するのに素晴らしい体験的データを蓄積できる場面だが、それが乏しくなっている。
トンカチでクギを打つのもそう。クギの方向と、トンカチが描く円の「接線」の方向が一致しないと、くぎはまっすぐ打てない、ということが、何度も何度も失敗を重ねることで理解できる。こうした体験の蓄積が、円の接線というのを理解するよすがとなる。
学習がうまく進まない場合は、まず体験の欠乏を疑ってみたほうがよいように思う。少なからずの子どもが、体験を補うことで「理解」が進むようになる。人工知能に大量のデータを学ばせると、「深層学習」により、理解・発見ができるのと同じように。
今回紹介した子どもの誰も、私より頭が悪いと思ったためしがない。私も同じ環境に身を置かれれば、同じように育ったろう、もしかしたらもっと能力が低く育ったかもしれない、と思った。子どもの能力は先天的なものと、環境による後天的なもので決まるのだろう。それは否定しないが。
後天的な、環境による要因がかなり多いなあ、というのが私の印象。体験を積もうにも積めない。親もそうした体験を積める環境を提供できない、あるいは提供しなければならないということに気づけてない、という場合が少なくない。もし後天的なものが理由なのなら、それは改善できる可能性がある。
私がツイッターでつぶやくのも、そうしたことにできるだけ多くの人に気づいてほしいから。それで人生が変わる子どもはたくさんいるように思う。子どもたちが必要な体験を積める世の中でありますように。