「エビデンス」が出る頃には手遅れ いかに未然に防ぐか

「エビデンスがなく、印象論で語っている」という指摘がしばしば。そりゃそうだと思う。私は「エビデンスが出てからでは遅い」と考えているから。エビデンスが出てしまうほど症状が深刻になってしまう前に気づき、それを修正できないかともがいているから。

扁鵲と呼ばれる名医がいた。ある時、死にかけていた王子の命を救った。王様は「お前は天下一の名医だな!」とほめた。扁鵲は首を振り、「私の兄の方が医師として優れています。病気が深刻になる前に治してしまうので、兄の医師としての名声は近隣に知られるだけにとどまっています」

「ではその次にお前が」と王様がほめようとすると「いいえ、一番上の兄はもっと優れていて、病気になる前にその原因をなくしてしまうので、誰も病気になりません。このため、この兄が医師であることに気づいている者は誰もいません。私などは病人が死にかけてから治すから天下に名を響かせてしまいました」

別の医師で、名を忘れてしまったが、こんな事例も。王様が、放置しておくと死ぬかもしれない病気になっていることを、医者が見抜いて治療を勧めた。しかし自覚症状がない王様は聞く耳もたなかった。さらに病状が進行し、「治療の最後のチャンスです」と伝えたが、やはり王様は聞こうとしなかった。

ところがとうとう王様も自覚症状が現れ、危険を感じた。そこでずっと警告を発してくれていた医師を呼んだ。医師は「自覚症状が出るようでは確実に死ぬ。なのに治療できなければ私は殺されるだろう」と考え、国外に逃亡。王様は急激に病状が進行し、死んでしまった、というお話。

エビデンスが出る頃にはすでに手遅れ、ということが多い。統計をとることができるほど事例が出てきているということは、事態が深刻化している証拠。そこから事態を収拾しようとすると非常に困難だし、コストもかかる。エビデンスさえそろわない兆候の段階で対策をとることが肝要。

殷の紂王は若い頃、名王として知られていた。ある日から、象牙の箸を使うようになった。それを見て重臣である箕子は「国が滅ぶ」と予見した。「箸を少しぜいたくにしたくらいで、大げさな。王様なんだからそのくらい」と批判されたが、箕子はかぶりを振った。

「箸をぜいたくにすれば皿などの調度類も、テーブルも、部屋も、建物も、庭園も、と、欲望は際限なく拡大する。やがて国を傾けるほどのぜいたくを求めるようになるだろう」と予見した。紂王の性格を考える、そしてそれを誰もいさめようとしない周囲のことを考えると、それは単なる兆候で済まないと予見することができたのだろう。

「象牙の箸」は兆候に過ぎない。「エビデンス」とは言いがたい。国家財政全体から見れば、箸をぜいたくにしたってたかが知れている。しかし皿が、部屋が、邸宅が、庭園が、と拡大し、国家財政を傾ける「エビデンス」が出そろったときには、もう遅い。止めようがなくなる。

私は、ツイッターは「気づき」を伝えるのにとても適していると思う。私はたまにJBPressで記事を書いたりするが、この場合、ある程度エビデンスをそろえて書く必要を感じるが、ツイッターは「つぶやき」でしかないから、証拠がまだ出そろっていない「気づき」でも構わない気軽さがある。

で、私はその「気づき」が大切だと感じている。エビデンスは大概、統計のことを示すが、統計は、何らかの変化に「気づき」があり、それに基づいて数字を集めてみようか、と調査をして初めて出てくるもの。気づきよりもずっと後でしか、統計というエビデンスは得られない。そしてその時には手遅れ。

私のつぶやきは、「これはもしかして『象牙の箸』ではないか?」という気づきを述べるようにしている。このため、印象論と言われても仕方ない。エビデンスがないと言われてもその通り。でも、エビデンスがそろってからでは「病膏肓に入る」不治の状態になってしまいかねない。

私の「気づき」が「気のせい」で済んでくれることを願っている。多くの人が問題に気づくと、それに気を付けるようになる。すると自然と、その問題は解決に向かうことが多い。未然に防ぐことにつながる。だから「気づき」を恐れずに伝えることは大切だと思う。後で笑われてよいから。

「鼓腹撃壌」という言葉がある。名君と知られる堯帝の時代、民は本当のところ、幸せに暮らしているだろうか、とコッソリ歩いていると、腹を叩き、地面を叩いて「日々働いて飯をたらふく食べられる、帝王の力なんか借りなくても幸せに生きてるぞ」と歌っている様子を見て、堯帝は安心したという。

堯帝は恐らく、問題が深刻化する前に解決してしまう名君だったのだろう。だから、堯帝が何をしてくれているのか、庶民には分からない。庶民は自分の力で幸せを勝ち取れている、と感じることができている。堯帝のおかげを感じ取れないくらいにうまくやる。それが名君の姿なのだろう。

扁鵲の一番上の兄が、治療とも感じさせずに、病気にもならないで済ませてしまうことで、医師であることも気づかせない。それが理想の治療だし、堯帝の目指した理想の政治も、庶民に帝王の力を感じさせないほど問題を未然に防ぐことにあったのだろう。

私は扁鵲のお兄ちゃんや堯帝の目指したことを、庶民である私たちにでもマネできることは何だろうか?と考えると、「気づき」を共有することではないか、と思う。気づきを共有する人が増えれば、未然に事態が深刻化することを防ぐことができる。エビデンスが出るほど深刻化せずに済む。

だから、どちらかというと、「エビデンスがない」と批判するよりは、「そうした気づきにエビデンスが伴うような事態が起きないようにしたいものだね」と反応していただきたい。そして私の「気づき」が杞憂で済むようにしていただきたい。「心配し過ぎだったね」と笑っていただきたい。

エビデンスが出なければ動かない、エビデンスが出なければ動くべきではない、という考え方は、もはや治療の施しようがないほどにまで病気が進行してから医者を呼んだ王様のようなもの。私は研究者だからエビデンスを重視する立場だが、社会事象では、エビデンスが出る頃にはろくなことにならない。

エビデンスが出る前に傾向に気づく。その気づきをもとに対策をとる。そして「心配し過ぎだったかも」と笑い話にする。そんな状態を目指したくて、私はエビデンスのない段階の「気づき」でも口にする。私は研究者だからこそ、エビデンスが出る頃には手遅れだという懸念も持っているからだ。

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