競争社会という「呪い」が無視、無関心を生む

この記事にも「努力」という言葉が出てくる。竹中平蔵氏が新著でも語っているらしいキーワード。竹中氏がこれまでに日本に染み込ませた「呪い」が、日本中で孤独を生んでいる。
もう、この妙に説得力のある、それだけに強力な「呪い」を解除すべき時がきているように思う。
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竹中氏は大臣になる前から「この世は競争社会、努力しないもの、勉強しないものは落伍し、置いていかれる」と不安を煽った。勝ち組、負け組という言葉が生まれるほど、日本中に競争がはじまるんだ、という恐怖を与えた。人にやさしくしてる暇なんてない、まずは自分の身を守らねば、と。

競争社会、という呪いは、成功したものは自分の努力、勉強、才能のおかげである、という正当化を生み、落伍者の存在を「競争社会なのだから仕方ない、当たり前」というリクツを生み、格差が拡大するのも仕方のないこと、という思念を生んだ。この結果、格差が比較的小さく、不満も小さかった日本で。

格差はどんどん大きくなり、どれだけ努力しても浮上できる見込みの立たない困窮に置かれる人が増えてきた。努力や勉強が社会的浮上につながらない、歯車の噛み合わなさを放置して、「努力が足りない、勉強不足」と断ち切る。そして自分の成功を暗に称える。そんな構造が日本で生まれている。

私が株主資本主義の行き過ぎを批判すると、それのどこが悪い、勉強してないヤツが貧しいのは自業自得ではないか、と反論する人が実に多かった。新型コロナが猖獗していた昨年まではなかったこと。新型コロナが落ち着いてきて、再び、株主資本主義を蘇らせようという人が増えてきたらしい。

株主資本主義も竹中氏が進めた規制緩和の流れの中で生まれた面がある。富を我先に貪りに行き、それに立ち遅れて貪られる側になった者は勉強不足、努力不足の人間であり、弱肉強食になるのは仕方がないこと、という、竹中氏が望んだ通りの社会になった。その結果、社会から切り捨てられた孤独が増えた。

今回、安倍元首相を殺した人物の背景は、まだ明らかになっていない。しかし私だけでなく、少なからずの人が、この犯人から「孤独」を感じ取っている。社会的に孤立し、竹中氏が作った社会的構造の中で弱者に位置づけられ、努力しないもの、勉強不足のものとレッテルを貼られる存在。

江戸時代には村八分が村落で一番きつい刑罰と認識されていた。社会的抹殺だからだ。この場合、意識的能動的な「無視」が行われた。
しかし現代は、「無関心」という、能動性さえ認められない形で人を無視する社会となっている。無視よりきつい孤立を味わうことになる。存在を認識されないのだから。

こうした世界観は、竹中氏が日本にはびこらせた世界観によって生み出されたものだと私は感じている。勝ち組にならなければ弱者に陥りますよ、努力、勉強しなければ大変なことになりますよ、と恐怖を煽ることで、成功者には「努力家、勉強家」という称号を与え、逆に落伍者には。

努力不足、勉強不足という烙印を押し、社会的不遇をかこっても仕方のない人、という社会的無関心の構造を作り上げた。私には、安倍元首相が殺された背景には、竹中氏の生んだ社会的構造がある気がしてならない。竹中氏の与えた「呪い」が、せめて一太刀浴びせたい、という復讐心を生んでいないか。

もう、そんな呪いは解除した方がよい。私達に余力は残されていないが、それでも無関心、無視を、少しでも減らす、できればなくす努力を始めた方がよい。無視、無関心という社会的抹殺を減らさなければ、幸せそうな人間に一太刀浴びせることで憎悪という関心を呼び起こしたい、という衝動は防げない。

脱竹中、卒竹中を始めないと、無視、無関心という社会的抹殺が増幅する。それは幸せな人間を襲撃し、報復するという衝動を生む確率を高める。竹中氏は大変クレバーな人間だが、こうした心理的機作に疎い方のようだ。これ以上、孤独を生まないためにも、私達は変化する必要があるように思う。

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