常識の支えを失った法律は無力化し、国は滅ぶ
私は「常識」とか「良識」という言葉が嫌いだった。しかし近頃、これらの言葉をすっかり聞かなくなってきた。そしてこういうニュースを見ると、法には明文化されていない常識、良識がどれだけ社会を支えていたのかがわかる気がする。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/334109
法律のような「言葉」は、言語化されていない様々な「常識」で支えられていることが多い。たとえば「ふきんで机を拭いといて」と頼む場合、職場で、ふきんはどこにあり、どれを使うべきか(食卓用か雑巾か、新品か使用中のものが)という共通認識がないとチグハグになる。
法を事細かに書かずに済むのは、常識で支えられているから。たとえばトンカチで頭を殴って人を殺したら、今の常識なら殺人罪。頭の陥没が死因だと強く推認されるから。しかしこの常識が失われるとどうなるか?
その人間が死んだのは別の原因だ、頭蓋骨の陥没で死んだとは限らない、もしそうだと言うなら証明してみせろ、というヘリクツが成り立ちかねない。私達の今の常識は、これが苦しい言い逃れでしかなく、ヘリクツでしかないとみなす良識を持っている。しかしそこが損なわれると。
実際には、頭蓋骨の陥没で死んだと証明するのは困難。もしかしたらたまたま心臓発作が起きて死んだのかもしれない、というヘリクツが成り立ちかねない。「強く推認」しかできないからだ。常識が失われると、多くの殺人が殺人とみなせない、ということになりかねない。
そうなると、法律で「日本国が認める医師の診断によって死因が強く推認されるとした場合」など、殺人を事細かに定義しなければならなくなるかもしれない。常識によるサポートがないと、法律を細かく細かく規定することになる。すると、今度は社会が窒息することになりかねない。
中国を統一した秦は、事細かに法律を定め、国民はすっかり嫌気がさし、反乱だらけとなった。そこで次の帝国である漢は、法律をなるべく減らし、常識、良識をなるべく大切にするようになった。秦は統一後瞬く間に崩壊したが、漢は前漢だけでも200年も続くことになった。
法律を下支えする常識が失われたら、法律の文章を事細かに書かねばならなくなるかもしれない。しかしそれでも言い逃れする人間が出かねない。常識を破ることばかりヤンヤと賞賛することは、秦の末期のように法律で縛りまくった国へと変貌させるかもしれない。しかしそれは国を滅ぼしかねない道。
冒頭の記事のような、法律の裏をかくような暴走に拍手を送ることは、かえって法律の厳密化を進め、さらに裏をかこうとする人間を生み、さらなる法の厳格化を招く・・・という悪循環を招きかねない。それによって私達の生活を窒息させ、国を滅ぼすことにつながりかねない。
法律のウラをかこうとする人間を称賛することは、この国を滅ぼすことに手を貸すことになる。これを阻止するには、彼らの行いに眉をひそめる「常識、良識」を私たちが取り戻すことが大切となる。常識の底が抜ければ、社会の安定も底が抜けてしまう。
もはや私達の社会は、底が抜けつつある。それを止められるかどうかは、私たちにかかっている。