できることはほとんどないと観念すること
子育ては、自分にできることはほとんどないと絶望し、子どもの健やかな成長と笑顔を祈るしかない、と観念するところから始めるしかないのかもしれない。
自分が見事に子育てしてみせるという気負い、希望、慢心があるとつまづきやすいように思う。
私は「驚く」ことをよくお勧めしているけれど、驚くには相手への期待をすべて手放す必要かある。自分の思い通りに育てよう、動かそうという願望を捨てる必要がある。思い通りに動かそう、育てようという思いがある限り、うまくいったときに「オレの狙い通り」と、自分の手柄にしてしまうから。
自分の手柄にしたとき、驚けなくなる。「思い通りの結果になった」と考えているから。子どもは自分の成長で驚かしたいのに「思い通り」と反応されたら面白くない。しかも親の、大人の手のひらで転がされてる感があるからよけいにつまらない。
結局、思い通りに動かそう、期待通りに育てようとするとうまくいかなくなる。我が子とはいえ、粘土細工のように好きな形に育てるのは難しい。
我が子といえど他人。別の人格。思い通りに育てられる、思うように動かせると考えることには無理があるように思う。
子どもがどんなことに興味を持つかコントロールできない。子どもがどれだけ成長するか分からない。朝顔に棒を一本添えることはできても、それに絡みつき、上に伸びるかどうかを決めるのは朝顔。無理やり巻きつけようとすればツルを折ってしまいかねない。朝顔には育つ力があるのだと祈るしかない。
助長という言葉がある。隣の畑より苗の育ちが悪いのに苛立った男は、自分の畑の苗を上に引っ張り、伸びるのを助けようとした。帰宅してそれを自慢もした。翌朝、苗はすべて枯れていた。根が切れたから。
思い通りに育てようとすると意欲の根を切ってしまう。意欲が切れたらもはやテコでも動かない。
男は助長ではなく、どうすべきだったろう?苗の様子をよく観察し、根が水浸しなら溝を掘って水を抜き、水が足りないなら水を与え、肥料の量を調整する。苗の育つ環境を整えはしても、あとは苗自身の育つ力があることを祈るしかない。どう育つかを決めることはできない。ただ祈るのみ。
果たして育ってくれるかどうかハラハラしながら祈る。ひたすら待っている。そして「たまたま」その時がきたとき、驚かずにいられない。喜ばずにいられない。赤ちゃんが立ち上がったときのように。赤ちゃんが初めて言葉を発したときのように。
小学校に入学するまでの親御さんは大概、理想的な接し方をしている。特に赤ちゃんに対しては。言葉がほとんど通じない赤ちゃんや幼児に教えようとしても伝わらない。だからただ祈るしかない。そしてたまたま出来たとき、驚かずにいられない。昨日までできていなかったのに!と。
この接し方は赤ちゃんや幼児だけでなく、子どもがいくつになっても続けた方がよいのでは、と思う。子どもは親を驚かすのが大好きだから。「できない」を「できた」に、「知らない」を「知った」に変えたとき、自分の成長で驚かしたい。そしてまんまと驚かすのに成功すると、得意満面。
親や大人が驚く様子は子どもの意欲をかきたてる。大人は無力だけど、子どもが「ねえ、見て見て」と声をかけたとき、一緒に驚くと意欲はますます高まる。意欲高く取り組むと、余計な脇道に行ってるな、と思っても、エネルギーが違うから知らぬ間に道が拡幅してる。え?と思うほどできることが増えてる。
私は、遊びと学びに境界線を設ける必要はないと考えている。遊んでる中で学び、学びを遊ぶ。幼児の学びと遊びがそうであるように。これは大人になってもそうじゃないかと考えている。
先回りせずに、子どもが先に進んでは発見するのを「後回り」して驚く。すると子どもはまた喜んで前に進む。やがて親を置いてけぼりにするくらいに、前へ。そして赤の他人だらけの「第三者の海」へと飛び込んでいく。親は「どうか無事泳ぎきりますように」と祈りながら。
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