憂国の士?

私が先日書いた文章を見て、「憂国の士」という表現が複数。昔、財務省主計局の若手官僚からは「国士」と呼ばれたことも。
たぶんほめてくれたのだろうけど、私はあいにく「国」というのがピンとこない。便宜上意識することはあるが、「国を憂う」趣味は私には薄い。

私の思考原理は単純で、悲しむ人、つらがっている人が発生するのを見たくない、なるべくみんなが笑顔で、楽しく生きられるようであってほしい、と願っている。そのために、国という器の運用のされようが決定的な役割を果たしているのだとしたら、それを改善したい、という順序で考える思考パターン。

私はイデオロギーなるものもピンとこない。もし悲しむ人がいずに済む、笑顔でいられる人が多くなる社会であるならば、共産主義だろうが資本主義だろうが君主制だろうが構わないと思っている。最近批判ばかりしてる株主資本主義も、みんなが笑顔でいられるなら、私は否定するつもりはない。

しかしどうも、そっちの方向だと悲しむ人が増える、つらい立場に置かれる人が増える、と感じたら、別の道を探れないかと考える。竹中平蔵・駒村路線は、平気で人を切り捨て、その人たちが悲しもうが顧慮しようとしない様子が看(み)て取れるから、そっちの道を避けたいと考えている。

日本という国の器は、たまたま海で囲まれ、海によって他の陸地と隔絶している。このため、比較的「国」という単位をイメージしやすい。また、この器の中に生きる人たちは、簡単には外に出られない。列車に乗れば外国に行ける大陸の人達と違って、この器からは物理的に非常に脱出しにくい。

だから新著でも、課題を明確にしやすいという理由で日本を例に取り上げた。
一つには、家族が日本というこの器で暮らしており、外の世界に出るのはそれなりにハードルがある事を考えると、この器の環境をなるべく快適なものとし、海外とのやり取りも改善したい、と考える。

しかし、いくら日本という器の人が幸せになったとしても、それによって泣いている人が大勢外で発生しているとしたら、それはイヤ。日本だけでなく、よその地域に住む人たちも笑顔で暮らしていてほしい。それにはどうしたらよいのか、と考える。

私は、特定の人の最大幸福を目指す気がしない。もしそんなことをして誰かが泣くなら、「あんた少しは遠慮しなはれや、そしたら泣かずに済む人いるやん。こんなにあんたに来なくても、あんた、笑顔でいられるやろ?」と言って、ちょっと遠慮してもらいたい。

不幸は最小化したい。そして、なるべく小さい多くの人が笑顔で楽しく生きられるようであってほしい。これはリクツじゃなくて、私はどうやらそれを望んでいるらしい、とわかってきたので、それを言動の原理にして、考えるようにしている。

だから私は憂国の士でも国士でもなんでもない。どこにでもいる民の一人として、どこにでもいる民が笑顔でそれなりに楽しく生きていける社会、世界であってほしいと願っている。ただ、それを実現するためには。

今後、エネルギーが欠乏していく。再生可能エネルギーが十分役割を果たせるのか、まだ予断は許さない。各種資源も乏しくなっていく。それら資源やエネルギーが不足すると、肥料も手に入れにくくなる。食料も乏しくなっていく。生きていく条件はますます厳しくなっていく。

その容赦ない現実を前にして、それでも人々が笑顔で生きられるようにするにはどうしたらよいか。それが私の分析の出発点であり、解決策を探る動機となる。あまり大上段に構える気がない。ただ、自分が笑顔で生きたいし、みんなが笑顔でいられるようでいてほしいだけだから。

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