「森を見る」のは容易、「木を見る」のが超困難な時代
私の書き込みを見て「木を見て森を見ず、はいけませんね、森を見なければなりませんね、視野を広く持たなければ」というご意見が複数。私は逆だと思う。森ばかり見て木を見ないから木が荒れ、結果的に森も台無しにしてしまうのだと思う。もっと一本一本の木を丁寧に観察したほうがよい。
昔々は飛行機なんてなかった。遠くまで行ける自動車もなかった。ましてやインターネットもなかった。だから、広い視野でみること、俯瞰(ふかん)、鳥瞰(ちょうかん)することが困難だった。そんな時代だと「木を見て森を見ず」という言葉は、それなりに有効だったのだと思う。
ところが今の時代は逆。Googleマップで宇宙から世界中の地域を俯瞰できる。インターネットは様々な記事を要領よくまとめていて、広い視野で物事をとらえることができる。「森を見る」ことが非常に容易な時代。でも逆に「木を見る」ことが困難になってきた。
昔の人は食事を作るにもお風呂を沸かすにも、山に焚き木を取りに行き、薪を割り、それを火にくべて、湯を沸かしたりご飯を炊いたりしていた。どこへ行くにも徒歩でなければならなかった。「木を見る」解像度がものすごく濃かった。けれど、私たちにこうした濃い体験があるだろうか?
自動車に乗ってしまえば、途中にかわいい花を咲かせた雑草があることにも気づかない。飛行機に乗ってしまえば、けし粒のように小さな家々に、ささやかな家庭生活が営まれていることも見えない。スイッチを入れればガスは着火し、IHは熱くなり、蛇口をひねれば水が出る。すべてがデジタル的。
私たちの生活はひたすら俯瞰的、鳥瞰的になる一方、「木を見る」ことが極めて困難になっている。火起こしをしたことがある人は、木材に火をつけることがいかに困難かを思い知る。火が持続的に燃えるようにするのが、いかに困難なことかを思い知る。目の前に超高密度の体験が存在することに驚く。
ところが、こうした高密度な体験をせずに、中学生になると「燃焼とは、酸素と熱と燃料が必要です」という3要素に分解されたのを丸暗記するように促される。「木」を知らないのに「森」を教えられる。木を知らなければ森を知ることになどなりはしないのに。
私が小学生の頃、「こんな子がいて驚いた」と、教員である親戚から教えてもらったエピソード。その子は全教科100点しかとらないような超成績優秀な子どもだったらしい。その子が理科の実験の時間に、上皿天秤で100g計るように言われたとき、「100g」と書いた紙を片方の皿に載せたという。
その子は恐らく、物の重さというものを実感する、濃密な体験が乏しかったのだろう。「木を見る」体験が欠如していたのだろう。それでいて、教科書や本を読む「森を見る」ばかりをしてきた結果、ペーパーテストでは優秀な成績を収めていたけれど、現場には役に立たない知識となったのだろう。
とある成績優秀な若者が、旧帝大の工学部に合格した。成績の優秀さから言えば、当然だった。ところがその若者はトンカチもドライバーも握ったことがない、文字の上の勉強しかしたことのない学生だった。ところが工学部と言うのは、研究道具でさえ自作しなければならない世界。若者は途端に無能者に。
トンカチも振るえず、ドライバーもうまく扱えず、同級生がどんどん道具も目的の機械も自作していくのについていけず、退学。その後は消息が分からなくなってしまったという。座学とは、俯瞰、鳥瞰する力を備えさせるが、「木を見る」という濃密な体験は欠如しがち。
江戸時代は8割が百姓だった。身近なものでなんとか道具を作ってしまう器用さがあった。濃密な体験がそれを可能にしていたのだと思う。敗戦直後でも国民の半数が農家だった。超高密度に「木を見る」人たちが、やがて学校で「森を見る」見方を知ったからこそ、優れた技術開発が可能だったのだろう。
しかし現代に生きる私たちは、「森を見る」技術ばかり磨いて、「木を見る」機会もろくにない。生活の多くがデジタル化され、マッチで火をつけるどころか、ライターで火をつけることもろくにしなくなっている。足元にどれだけの種類の植物がいて、虫たちがうごめいているかも見なくなっている。
現代人は、放っておいても「森を見る」。でも、よほど意識的でなければ「木を見る」ことができなくなっている。木を見ずに森を語ることは本来できない。木の一本一本の悲鳴を無視した俯瞰、鳥瞰は、やがて森が死滅するまで、その兆候をつかむことさえできないだろう。
だから私は、抽象的なこと、難解なこと、広い視野というものをいったん脇に置く。ネットもある現代では、「森を見る」は極めて容易。しかし「木を見る」ことができる人はまれになっている。だから私は、極力「木を見る」ことにしている。すると、世間で語られている「森」との矛盾が見つかる。
木々が、その濃密な体験から教えてくれるメッセージが、「森はそうじゃない」と教えてくれる。木々が教えてくれる森の姿から、もう一度木々を見つめ直す。もしかしたら、その木一本がたまたまそれを訴えていただけかもしれないから。でも意外と、他の木々も同じ訴えをしていることが多い。
「木を見る」「森を見る」これを何度も繰り返し、往復する中で、濃密な木の声と、大きく眺める森の姿が次第に一致してくる。そうした森の姿は、木を見ずに森ばかり見ている人の見え方と相当違ってしまう。それがたまたま「イノベーション」となる。
森を見ることが容易な時代だからこそ、俯瞰的に物事を語ることがあまりにも簡単な時代だからこそ、そして「木を見る」ことがほとんどなされていない時代だからこそ、「木を見る」ことは非常に重要なアプローチとなる。私はひたすら、「木を見る」ことに注力しているようなもの。
そしてその気づきをツイッターで共有すると、「私もその木を見たことがある」という人が現れる。すると、「どうやらこれまで常識とされてきた森の姿とは、現実は違うのではないか」という反省が生まれてくる。私は、「木を見る」ことで森を改めて見直すやり方を繰り返しているだけ。
このことは、もっと意識されてよいように思う。現代は「森を見る」ことがあまりに容易で、逆に「木を見る」ことが難しい時代。動画を見れば見た気になる。けれどそれは「森を見る」ことにしかならない。どれだけうまくまとめられた動画でも「森」でしかない。
「森」ばかり眺めていないで、「木」を観察しよう。自分の知らないもの、気づいていなかったものを探そう。すると、木々は濃密な体験を私たちに提供してくれる。その高密度な体験は、私たちを驚かし、常識を覆すことになる。常識という名の「森」は幻想だったことに気づかされる。
「広い視野を持とう」とよく言われるが、それは農業体験をほとんどの国民が持っていた時代にしか有効ではない。むしろ私たちは、地を這う虫のように、丁寧に「木」を観察することこそが大切。すると、木を知り、森を知ることができるようになるのではないか、と思う。