「既得権益の打破」というロジックの問題
最近、私が警戒する言葉に「既得権益」がある。「既得権益に群がり、それを守ろうとし、変化を嫌う人たちがいる。その既得権益層を打破しなければならない」・・・これは小泉元首相が好んで使ったロジックであり、当時、日本で一世を風靡した。だが、私はこのロジックが嫌い。
当時、タクシーなど、様々な分野で規制改革を行った。「既得権益」を打破し、変革をする!と勇ましい言葉が使われた。労働組合も既得権益扱いされた。それらは見事に弱体化され、結果、どうなったかというと、特定の、ごく少数の人たちだけ儲かり、多くの人が疲弊し、貧困化した。
私は原発に不安を持っている方だが、それでも「原発村」と呼び、原発賛成派を「既得権益を守ろうとしている」と批判するロジックは好きになれない。私たちはどうあろうと、原発が作った電気を利用し、それを享受してきた。原発で働く人たちはまじめに働いてきただけ。それを揶揄するのは好まない。
もし原発を廃絶したいなら、原発立地自治体の人たちに仕事があるようにすればよいと思う。その地域の人たちは、地元の繁栄を思い、しかし仕事を作るに作れず、苦渋の決断をして原発建設を了承した経緯を、どこも持っている。そしてできた限りは、まじめに働き、支えた。それを悪く言っちゃいけない。
「既得権益層を打破する」という言葉は勇ましいが、そして既得権益層は悪であり、打破する側は絶対善である、という仮定を置いているが、果たしてそうだろうか。その既得権益層と呼ばれる場には、まじめにコツコツ働いている人たちがたくさんいる。それを一からげに悪と呼んでよいのだろうか?
何よりも、その「既得権益」なるところには、ささやかな生活を営んでいる人たちがたくさんいる。「打破」された時、その人たちは路頭に迷い、貧困にあえぐことになる。他に仕事が与えられ、生活を脅かされないならいい。しかし「既得権益の打破」には、そんな配慮が感じられない。
「既得権益層は悪であり、打破された後、塗炭の苦しみを味わうだろうが、それは今までうまい汁を吸ってきたバツであり、いい気味だ」という心理が裏に隠れているように思う。そこに同情とかいたわりの心情が見えない。「既得権益の打破」には、同じ人間であるという姿勢が見えない。
私は、相手を悪とみなし、自分を絶対善に置く「既得権益の打破」という言葉に、強い警戒心を抱く。相手に欠点があるなら、当然自分にも欠点がある。どちらも人間なのだから。完璧な人間なんていないのだから。もし完璧な人間がいたとしたら、完璧だという欠点があると言ってもよい。
欠点のある「既得権益層」なるものを打破して、やはり欠点を持つ自分が支配層になるのだとしたら、いったい何のパロディーだろう?よくもまあ、相手を既得権益層と偉そうに上から目線で語れるのはなぜだろう?なぜ自分も欠点のある人間だと考えないのだろう?
「既得権益層の打破」という論理は、欠点のある者が別の欠点を持つ者に悪口を言っているだけに過ぎない。トンカチが「お前はクギも打てないのか」とノコギリを罵り、ノコギリが「お前は木を切ることさえできないのか」とトンカチを罵るようなもの。こうした絵がどれだけ愚かしいか、よくわかる。
私は「築論」を推奨している。相手の論を打ち負かし、滅ぼさずにはいない「討論」ではなく、相手の長所を生かし、相手の欠点は自分が補い、逆に自分の長所を相手に生かしてもらい、欠点を補ってもらう。そうした相互補完関係を築くことを、建設的な議論、「築論」と呼んでいる。
トンカチはクギを打ち、ノコギリは木を切り、カンナは表面を平らに削り、ノミは接合部を削る。それぞれは単機能で、長所はあるが他のことはできない欠点がある。しかし欠点をあげつらうのではなく、互いの長所を持ち寄り、欠点を補い合い、家を建てる。そうした関係性こそが重要なのではないか。
昨今、兼業農家とか、農協とか、農林水産省とか、あるいは特定の大学教授を敵視し、やり玉に挙げ、既得権益層とみなし、打破すべし!という言説が農業界で流行し始めている様子。そうした本が次々に出ている。しかし私は、この傾向に若干の疑念を持っている。
農協は、かつて郵貯と並ぶくらいに世界的に巨大な金融を握っている。欧米の人種差別的な見解を持っている人たちから見たら、アジアのこうした巨大なマネーは、目の上のたんこぶだろう。できれば弱体化させたい。可能ならば自分たちの力に取り込みたい、と考えるだろう。
郵貯は小泉元首相の華々しい活躍で、見事陥落した。アメリカの保険会社も絡めるマネーに変じた。残るは農協。しかし自ら農協を攻撃するのは筋が悪い。できれば日本人同士で争わせ、互いに傷つけ合い、弱体化させることが望ましい。これは欧米の歴史ある植民地支配の手法。
農協のマネーは、日本農業を再生させる足掛かりになる重要な持ち駒。それが分かっているから農林水産省も変な手出しをしないようにしている。しかし農協の組合員は高齢化し、兼業農家も多く、このままではダメだということを知っている。だから腰が引けている。
ならば、農協を批判し、その農協を守ろうとしている農林水産省を批判し、日本農業を守ろうとしている言論人を批判すれば、「そうだそうだ、既得権益層の農協なんか潰してしまえ!それを守ろうとする農水省もともどもに!」という勢いがつく可能性がある。
こうして日本人同士で憎しみ合い、潰しあって、さあ農協の巨大マネーはどうしましょう、と言ったときに、漁夫の利を得ようとする外国企業が現れないとも限らない。今の農協批判、農水省批判は、その筋書きに乗っているリスクを考える必要がある。
坂本龍馬は、日本人同士で殺し合い、憎しみ合うことを最も警戒した。欧米は植民地を支配する際、必ずと言ってよいほど、相手国の内部で争わせ、戦わせ、互いに憎しみ合って弱りはてた時に支配の手を伸ばしていることを知っていたから。
農協に問題があるのは確かだ。その農協を守ろうとしている農水省に問題を感じるのももっともな話だ。しかし、農協の巨額マネーは、日本にとって残り少ない強みであり、重要なカードでもある。これを敵視し、蹂躙すれば、日本が弱体化する。そしてそれを喜ぶ人が別にいるのかもしれない。
問題があるかもしれない。しかしそこには必ず長所もある。短所があるなら、私たちが補えばよい。私たちの欠点は、相手に補ってもらえばよい。こうした相互補完的な関係を築けばよいのではないか。なぜ既得権益層だと批判し、敵視するのか?同じ日本という船に乗っている「仲間」ではないか。
相手の長所を認め、それを活かそう。自分の長所を持ち寄り、相手の短所を補おう。肝臓が解毒を担当し、心臓が血液を送り、腎臓が不要なものを尿にして捨て、脳が情報を統括して、というように、互いの長所を持ち寄り、一つの生命体として活力を示すように。
肝臓が「お前は解毒をしない」と心臓を罵り、心臓が「お前は血液を送らない」と腎臓を罵ったとして、何の意味があるだろう?「既得権益層の打破」という言葉は、こうした愚かしい罵り合いの出発点に見える。問題があるなら私たちが互いに力を持ち寄り、支え合おうではないか。
これから世界は大荒れに荒れる。日本内部でもめている場合ではない。坂本龍馬が生きていたら、きっとそう諭すだろう。「既得権益層の打破」、そろそろ、「まだそんなこと言っているの?」と、古臭い昔の言葉としてそっと川の流れに流してしまいたい。
「既得権益層の打破」の代わりに、私たちは、変わることを互いに恐れないようにしよう。200年以上の歴史がある老舗は、必ずと言ってよいほど業態を変化させ、その都度、商売のやり方を変えているという。変化するから老舗として生き残ることができた。
破壊ではなく、変化を。そして変化する際は、苦手とするところを得意とする人に補ってもらう必要がある。時代が変われば、立場が逆転することもある。だから多様性を大切にしよう。大工道具にいろいろあるように。人体にいろんな臓器があるように。
「変化を恐れない、変化についていくために、誰も取りこぼさない」。誰も取りこぼさない、という包摂的(インクルーシブ)な姿勢があれば、みな安心して変化できる。
後漢の光武帝は天下統一した時、かつて敵だった人々が恐れているのを感じ取った。歯向かったことを恨みに処罰されるだろう、と。
光武帝は、過去の文書をすべて焼き払わせた。そうすることで、誰が光武帝を殺そうとしたのか、だれが歯向かったのかが分からないようにした。そうすることで、光武帝は誰も罰する気がないことを明らかにした。この結果、国民は「変化」を恐れなくなった。
今まで通りを続けよう、と変化を恐れるのは、変化したら自分が貧しくなると恐れるからだ。生活できなくなるかも、と不安になるからだ。もし、変化しても生活は続けられる、子どもを学校に行かせ、老いた親を病院に通わせてやれると思えば、変化を恐れる必要はなくなる。
変化を恐れないようにするには、「既得権益層の打破」という、悪に仕立てるのではなく、共にこの世界で生きる人間であると考え、その人たちの生きていける方法を必死になって考えることだろう。そうすれば、変化は恐れる必要がなくなる。むしろ一緒に変化を望むだろう。
リチャード・ウィルキンソンは興味深いデータを紹介している。挑戦しても、変化しても生活が破綻する恐れがない北欧では、アメリカ以上にイノベーションを起こそうと創業する人が多いという。アメリカンドリームを実現したければ北欧に住んだ方が良い、とも。
https://www.ted.com/talks/richard_wilkinson_how_economic_inequality_harms_societies/transcript?language=ja
変化するには安心が必要。敵とみなし、敵だったのだからどれだけ苦しんでもザマアミロだ、という対し方では、むしろ殻に閉じこもり、変化を妨げる。ここ20年の日本は、まさにその状態に陥ったために、新産業を産み出せなかったのではないか。変化するポーズだけうまくなったが。
そう、変化し、変革するフリをするという「既得権益層」を新たに生み出しただけではないか。そして、真に知恵と力を持っていた人たちを「既得権益層」と呼んで破壊し、変化するための知恵と力を同時に破壊してしまったのではないか。もはやこの愚を繰り返してはならない。
変化しよう。変化するためにも、誰も取りこぼさない覚悟を持とう。相手の欠点を責めるのではなく、自分が補おう。自分が完璧であるフリをするのをやめ、相手に補ってもらおう。そうした相互補完的な関係を取り戻し、共に荒波を乗り越えていこう。そう、強く祈る。