ウンチク人
他人の文章を批判するのに「あれも書いてない、これも書いてない、重要な事柄に言及していないこの文章はダメだ」と批判する人がいる。最近はずいぶん減ったように思っていたけど、久しぶりに出会ったので、ちょっとそのことについて考えてみたい。
私も実は以前、ウンチク垂れ流す嫌な人間だった。人の文章を見ては「あの重要な話に触れもしないなんて、これでは意味がない」なんて批判し、そのウンチクを垂れたもの。そうすることで、その文章の書き手よりも自分のほうが知識があるように見せかけたかったのだろうと思う。
でも、こうしたウンチク人は、どういう文章が人に伝わりやすいのかということを理解できていないように思う。
文章というのは、伝えたいテーマを一つに絞る方がわかりやすい。何でもかんでもぶち込んだごった煮だと、教科書の文章みたいでかえって一つも印象に残らないなんてことになりかねない。
プレゼンなんかでも、何もかも盛り込むのではなく、一つのメッセージを伝えることに集中する方が、聞く側にとって印象深くなる。だからテーマを一つに絞るわけだけど、ウンチク人は文章がなぜテーマを絞るのかという点に理解を示さず、「あのことを書いてない」と言って批判、ウンチク垂れる。
結局ウンチク人は、自分の知識の豊富さをひけらかすチャンスを探しているだけ。テーマを一つに絞っている文章を見て「ここに書いてない知識をオレは知ってるぞ」と喜んで、そのウンチクを披露し、「ねえ、僕ってこんなに知識があるんだよ!スゴイでしょ!」と言ってるようなもの。
まあ、かつてウンチク人だった私は、ウンチク人を批判すると自分の胸がチクチク痛いわけだけど、そんな気持ちでウンチク垂れていたなあ、と思い出す。テーマを一つに絞るのは戦略なのに、「一つしか書いてない、底が浅い、単層的」と批判する。わかってないのはどっち?という話。
私がウンチクを語るのをやめたのは、指導法としてあまりよくないと気づいたから。あれもこれもと教えすぎると、聞く側は情報多すぎてパンクし、かえって何も印象に残らないということに気がついた。「なんかたくさん話してもらったけど、何を話されたっけ?」になる。
それに気づいてからは、ポイントを一つに絞って話すようになった。なんかそれ面白そう!と思ってもらえるようなエピソードを一つ紹介し、その他の面白さは自分で学んで見つけてもらったほうがいいなあ、と思うようになった。
ウンチクを全部しゃべってしまうことは、自分で発見する楽しみを相手から奪っているようなもの。たった一つの面白さを伝えることは、興味を持つきっかけにはなるけれど、その後そこから何を汲み取るかは自分次第、という楽しみがたっぷり残されることになる。
推理小説の内容を全部説明されたとき、その推理小説を読みたいと思うだろうか?むしろ楽しみを全部奪われて、読む気がしなくなるだろう。映画のクライマックスを説明されて、観る気がするだろうか?しないだろう。ウンチク披露は、自分で発見する楽しみを相手から奪う泥棒行為。
私自身、自分で発見したいという欲求があることに気がつき、それからはウンチクをなるべく語らないようにし、それよりはそれに興味を持たずにいられなくなるような種子を一つ蒔く、ということを心がけるようになった。
ウンチク人は、「僕こんなことも知ってるよ!スゴイでしょ!」と、自分の知識の多さで人を驚かしたいのだろうけれど、人を育てようという意識に欠けているように思う。人を育てるなら、「あなたが言ってたこと以外にこんなことも見つけたよ!面白かった!」と、話を聞く側に回った方がよい。
2月末に出る新刊は、哲学や思想を「ちょっと読んでみたいなあ」となるように、あえてエピソードを絞り、ストーリーをスッキリさせた。恐らく、哲学や思想の専門家だと「あの話をするならこの話もしなきゃ」と盛り込まずにはいられないかもだけど、私はよくも悪くも素人。だからこそ。
理解の邪魔になるその他エピソードは「ノイズ」として全部省略した。専門家からしたら「ソクラテスやプラトンの話をするならこれを欠かしてはいけないだろう!」と不満になるかもしれない。しかしそんなに盛り込みすぎると、初心者は多すぎる情報に溺れてしまう。
いわば、道案内するようなものだ。道案内の際に「途中でオシャレなカフェがあるんだけど、そこの名物は」なんてウンチク語られると、その道案内は甚だしくわかりにくいものになるだろう。道案内は、どこで曲がるかだけの情報に絞って伝える必要がある。
私はこれまで、哲学や思想の本をいろいろ読んだけど、ウンチク多すぎて流れを大づかみするのに向いてる本がなかなか見当たらない、ということに気がついた。果たして私が適任かどうかは別として、素人だからこそ、専門分野に遠慮せずにそれをやってみようと思った。
その意味で、「びじゅチューン」はすごいなあ、と思う。これまで美術品を紹介する番組といえば、格調高く、いかに素晴らしい作品であるかを、ウンチクたくさん述べるものばかりだった。ところが「びじゅチューン」はウンチクを一切語らない。美術品に関心を持ってもらうことだけに特化し、おちょくる。
ムンクの叫びはラーメンの店長になり、秀吉の羽織は何かに怒ってる妻の姿に置き換え、姫路城はホレた男に素直になれない女の子となり、麗子像はミカンで悪夢を退治する夢バスターになり、見返り美人は全てを掘削するドリルになり。もう無茶苦茶。芸術作品と無関係な内容。
でもそれを見て笑った子どもたちが美術館に足を運び、本物の芸術に興味を抱くきっかけになったという。そこから本当の意味で芸術が好きになる子ども達がたくさん生まれている。「びじゅチューン」の功績は大変大きい。
哲学や思想の分野で、「びじゅチューン」みたいなことはできないだろうか、というのが、今回の本を書く動機。普通は、哲学や思想といえば、しかつめらしい顔をして重厚そうに話すのがお約束。でもそんなの、親しみも何もあったもんじゃない。何より楽しくない。
あいにく私は「びじゅチューン」のような笑いのセンスはない。でも、「あ、これは面白い!」と思ってもらえそうな筋立てをなるべく心がけた。それの邪魔になりそうなウンチクは全部しりぞけた。だから、「あれも書いてない、これも書いてない」なんて批判は、筋違いと考えている。
表紙のイラストは、今の朝ドラで「声の小さすぎる監督」役で話題の、レ・ロマネスクTOBIさんからご紹介頂いたイラストレーターの方にお願いした(TOBIさんの「ひどい目。」と同じ方)。とてもポップで親しみやすいものに仕上げて下さって、非常に満足している。
そんなだから、私の本を読んだからといって哲学や思想のすべてがわかる、なんてことはない。でも、「なるほど、そう考えてみると哲学や思想ってかなり面白そうだな!」と感じてもらえるように書いたつもり。読んでみて頂けたらと思う。
「世界をアップデートする方法 哲学・思想の学び方」
https://x.gd/MWrKc