「どうせ」の関係性から「どうせなら」の関係性へ

関係性から考えるものの見方(社会構成主義)、第何弾かもうわからないけど。
「納棺夫日記」の著者は、遺体を棺桶に入れる仕事(納棺夫)をすることにしたとき、親戚から絶縁を言い渡されたという。なんでそんな仕事をするのだ!と。

著者は、まるで医者であるかのように白衣を着、遺体を丁寧に洗い、できるかぎり安らかに眠ってもらえるよう、丁重に棺桶に納めるようにしたという。それを見たおばあさんが「私も死んだらあなたにお願いできないだろうか」と言うように。

やがて、自分に向けて両手を合わせて拝む人まで出てきたという。それまで納棺夫の仕事は、どうせ死んでいる人を棺桶に入れるだけの仕事、と思われがちなのを、居住まいから変えて、ご遺体に誠実に向き合う姿を見せているうち、遺族が涙を流して感謝する形に変わっていったという。

これは、多くの人が「死ねばただの肉塊」扱いされても仕方ない、という気もしつつ、死ねばぞんざいに扱われても仕方ないと思いつつも、それに不安と悲しみと恐怖を感じている中、著者のようにとことん遺体に誠実に向き合おうとする人を見ると、心から安心するのかもしれない。

遺体への「関係性」を、「どうせ死んでいる遺体」という向き合い方ではなく、「どうせならご遺体をできる限り丁重に誠実にいたわらせていただく」に変えたことで、納棺夫という仕事を尊厳のある、誇り高き職業に変えた面があるように思う。

ナイチンゲールが登場する前の時代、看護師という仕事はさげすまれていた職業だったのだという。患者の血や膿で汚れるし、「どうせ汚れるから」ということで放置していたから、その汚れた服装からも軽蔑されることが多かったらしい。ところがナイチンゲールは。

患者の血や膿で汚れたら、清潔な服に何度でも着替えるし、患者のシーツも頻繁に交換し、きれいにして患者の居住空間をできるだけ快適なものに保った。すると、患者の死亡率が激減した。実は、不潔な環境のために二次感染が起き、多くの患者が命を落としていた。それを改善できた。

また、看護師は多くの女性があこがれるかっこいい職業の一つに変わった。「どうせ」患者の血や膿で汚れるから、と、当時の医師や看護師が放置していたのを、ナイチンゲールが「どうせなら」患者に快適な空間を徹底して提供しよう、としたその「関係性」のデザイン変更がもたらしたものだろう。

私が子どもの頃、観光地のトイレというのは臭いし汚いのが当たり前だった。ところが私が大学生になるころ、一人の女性がトイレを卒論にまとめた。リピーターの観光客が多い観光地には清潔な女子トイレがある、ということを示唆する内容。やがて観光地に清潔なトイレが整備されるように。

それまでのトイレは「どうせ」下のことをする場所でしかなく、汚れても臭くなっても仕方のない場所、ととらえられていたのを、女性の卒論が「どうせなら、快適に過ごせる空間にすると、観光地への旅行も気分の良いものに変わる」ことを明らかにし、トイレ文化が劇的に変わった。

私たちは「どうせ」と考える関係性を持ち込むことで、その職業や商品・サービスをさげすまれやすいものに変えてしまっているのかもしれない。しかしそこに「どうせなら」という関係性を持ち込むと、職業やサービスのイメージがガラリと変わる。

「どうせ」の関係性を「どうせなら」の関係性にデザインし直す。すると、それまで軽く見られていた仕事、あるいは商品が、評価を一変させる可能性がある。もし身近に「どうせ」と思われているものがあったら、それを「どうせなら」で料理し直してみよう。それだけでも大きなイノベーションになるかも。

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