どんな境遇も楽しむ力

愛知県に住んでるとき、しばしば市民講師として中学校や高校に授業に行った。とある私立中学校に行くと、先生が自慢げに「うちの学校の保護者は、医者や弁護士、経営者が多いです」と語って聞かせてくれたとき、私は一応「それはすごいですね」と応じながら「世間せまっ」と思った。

「授業で使いたいので、カッターかハサミを用意するように生徒に伝えてください」と言ったら「うちでは生徒にケガをさせてはいけないので刃物は禁じています」と言われた。私は大人しく「そうですか」と引き下がったが、「おいおい、刃物触ったことのない外科医を育てる気かよ」と思った。

授業内容は「花びらでリトマス試験紙」。すると生徒の一人が「僕、知ってるよ。アントシアニンって言うんだよね。紫キャベツとか」。私は「よく知ってるね」と驚きつつ、「じゃあ、なぜ酸性やアルカリ性で色が変わるんだろう?」と問うと、口ごもってしまった。問いを立てるのには慣れてなかった様子。

私はわざと、どんな花びらを持ってきたらいいかは言わなかった。すると、生徒たちが持ってきた花びらの中には、酸やアルカリを加えても全く色が変化しないものがあった。私は「何で色が変わる色素と変わらない色素があるんだろうね?」と問いかけた。子どもたちは意外だったようだ。

画用紙に花びらの搾り液を付け、焼酎を浅く入れたコップに立てた。すると焼酎が染み上がり、色素がいくつかの種類に分かれた。一つの色素だと思っていた生徒たちは意外だった様子。一人の生徒が「先生、黒マジックで試してみた」と声をかけてくれた。いくつもの色素に分かれていた。

「君、オモロイの発見したなあ!こういう遊びの実験、先生大好きや!」というと、他の子たちも意外な結果が得られそうな実験を始めた。
私は、思考の枠を破壊するような出会いをたくさん子どもにしてほしいと考えている。

つくばの学校はトップクラスの成績らしい。石を投げたら研究者に当たるような土地柄だからかもしれない。コンサートに足を運ぶと研究者だらけともいう。私はつくばに異動するよう何度も言われたことがあるが、「世の中が研究者で回ってると子どもが誤解してもなあ」と、気が進まない。

私は、世の中がいろんな職業の人達で支えられていることを子どもたちに知っておいてほしいと願っている。それが生きる力にもなると思うから。研究者以外の生き方を知らない、医者や弁護士、経営者になること以外の人生しか思い描けないのは生きる力が失われやすいように思う。

私の父は、覚えているだけで32の仕事をしてきた。「あなたのお父さんは何をしている人?」と質問されると、「『今は』これをやっています」と答えたり、「さあ?」と答えられなかったり。
思い出深いのは、小学校の授業参観で、「お父さんの仕事は?」という授業。みんな、自信満々に答えていった。

そして私の番。「篠原くんのお父さんのお仕事は?」と先生から聞かれて、私は自信満々に「自治会です!」後ろの保護者たちがドッと笑った。先生は「そうじゃなくて、お給料をもらってる仕事は?」と重ねて聞いてきた。私は首をかしげながら「自治会しかやってないと思うけど?」。後ろでさらに爆笑。

当時、仕事もせずに自治会ばかりやってたので、私の誤解も無理からぬものだった。父はその話を聞いて「そうか、そうか」と笑うだけ。
父がタフだなあ、と思うのは、どこの会社に行っても楽しそうに過ごすこと。そしてその職場のリーダーにいつの間にかなってしまう。

漬物問屋に父がアルバイトに行ってた時のこと。ある日、経営者が我が家を訪れて、「うちの店を継いでほしい」と。父、びっくり。他にもたくさんの従業員がいるし、ずっと古株の人たちもいるのになぜ?と聞くと、「みんな店の商品を勝手に持ち帰っている。あなたは一つも商品に手を付けなかった」と。

「一つだけ条件があって、知的障害のある娘の面倒をみてほしい」と。大阪でも有数の漬物問屋だったけど、「漬物屋になる気はない」とのことで母とも相談し、その会社を辞めた。
私は父のおかげで、世の中にはいろんな会社があって、社会を支えていることを知った。子どもたちにもそれを知ってほしい。

私はいつも「もし研究者でなくなったら?」という問いを立てて、「どうやって生きていこう?」と考えている。できれば、どんな世界に飛び込んでも楽しく生きていける力を持ちたい、と願っている。
世の中には、高学歴を誇りながら生きる力に乏しい人が少なくない。

「オレはこんなところにくすぶってる人間ではないんだ」といい、周囲の愚かさを笑い、自分の優秀さを誇る人って、結構目にする。しかしそういう人は現状を楽しんでいないし、不満ばかりだから仕事に身が入らず、結局パフォーマンスも悪い。

ユダヤの人々は子どもに音楽を学ばせるという。もし迫害を受け、これまでの仕事を失っても、音楽で流しをやって最低限メシを食べられるように、という強さを身につけるためだという。どんな境遇にあっても楽しんで生きていける力。それが「生きる力」かな、と。

特定の仕事しか想定しない生き方というのは、生きる力が弱くなるように思う。元農水省事務次官が息子を殺した事件がある。どうやら、父親を超えるようなエリートコース以外を想定しない子育てをしてしまったらしい。しかしそのコースから離脱したとき、子どもは荒れまくった。自暴自棄になった。

今さら両親がエリートコースでなくてもいい、と宗旨変えをしても、子どもは「オレをバカにしてるんだろう」という被害妄想から離れることができなかった様子。親がエリートコースしか想像しないことは、子どもを「呪い」にかけることになりやすい。

子どもがどんな道に進んでも、楽しく生きていく。そうしたタフさこそ、子どもに身に着けてほしいと私なんかは願っている。どんな境遇にあっても笑って楽しんで生きていく力。そうした力とは何か?子どもたちがそうした力を身につけるにはどうしたらよいのか?それを考える日々。

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