インターネットで多くの人を雇用する社会の実現

新型コロナ流行の最中、人の流れを8割減らそう、ということが実行された。実際に8割減ったかは別として、かなり多くの人たちが家に引きこもった。この時私は、「食料などの必須な物資が十分確保できていて、これをきちんと配分できるなら、人間は生きていけるんだな」と思った。

なのに、実社会は、特定の人にだけお金が集中し、多くの労働者は低賃金に据え置かれる環境になってしまった。そして今も、「豊かになりたければ頑張れ、頑張れない奴は貧しくても自業自得だ」と脅す。何のためにそこまで差別化するの?が不思議。

先進国では、アメリカでもフランスでも日本でも、農家は人口の1%程度。この人たちが残り99%近くの人たちの食料を生産している。99%の人たちは食糧を作っていない。だから、食料の量が十分なら、あとは99%の人たちに配分すればよいだけ。なのに、富が偏在しているために配られない人が出ている。

私には、99%の人たちは、「消費者」に見える。自動車産業とか、さまざまな職業が「産業」と、何か産み出しているように表現しているけれど、食料は作っていない。そればかりか、エネルギーを消耗している。だとすれば、農業以外の産業は「消耗業」と呼んでもよいかもしれない。

しかし実は、農業も「消耗業」と化している。もし肥料は地元でとれる有機物だけにし、人力や家畜の力で耕しているなら、農業に投入したエネルギーよりも大量のエネルギーが食糧として「生産」できる。しかし現代の農業は化学肥料を使い、耕すにもトラクターを使用する。

化学肥料は大量のエネルギーを使って製造されている。トラクターは燃料に石油を使う。このため、農業でも大量の「消耗」をしている。農業も、エネルギー的には「産業」と言えず、消耗業と言わざるを得ない。

現代の職業のほとんどは、石油など化石燃料を燃やして消耗する「消耗業」と化している。エネルギーや資源を産み出す「産業」とは言えない。
で、そうした「消耗業」を観察していると、現代の消耗業の多くは、エンターテイメント化していると言える。

自動車はただの移動手段というだけでは買ってもらえない。デザインのカッコ良さ、乗り心地、音楽を聴くことができる内装、様々なエンターテイメントが凝らされている。スマホもそうだし、テレビ番組もエンターテイメント。農業だって、考えてみたらエンターテイメント化されている。

非常に貧しかった昔は、食べることさえできたら味は二の次だったのに、今や年中いつでも好きな野菜や果物を食べることができ、味付けも様々。食事はエンターテイメント化している。現在の経済は、大部分がエンターテイメントで動いていると言って過言ではない。

課題は、どうやってエネルギーと資源の消耗を減らしながらエンターテイメントを提供するか、という点。一昔前なら、自動車のエンターテイメントとは、無駄に排気量を大きくし、スピードを出せる、エネルギー消耗型のエンターテイメントだった。しかし、そうした楽しみ方は今の若い人にウケない。

10年ほど前になると思うが、当時、若い人が自動車を欲しがらなくなっていると聞いたので、「スーパーカーって知ってる?」と訊いてみた。すると「太陽電池で動く車のことですか?」という答えでひっくり返った。団塊ジュニアの私たちにとって、スーパーカーは廃棄量の大きいエネルギーロスの大きな車。

若い人たちにとって、エネルギーを無駄に浪費する車はスーパーではない、エネルギーをいかに使わずに済ませるかがスーパーなのだ、と気がついて、私は目からウロコだった。今の若い人たちにとって、「消耗業」は悪に見えつつある。

子どもたちが、将来なりたい職業にユーチューバーが少なくない、というのは、私はなんとなくわかる気がする。農家の方たちが頑張って、みんなが飢えずに済む十分な食料を作ってくれているなら、あとはそれを分かち合うだけ。その分かち合い方は、エンターテイメントのウケの良さで決めているだけ。

ユーチューバーは、動画配信で稼いでいる。消費者は、スマホで動画を見て楽しんでいる。昔のスーパーカーを走らせるより、はるかに消耗が少ない楽しみ方だろう。エンターテイメントを楽しむにも、なるべく消耗が少なくて済む方法を、今の若者は無意識のうちに探っているのかもしれない。

ならば、やたらとエネルギーや資源を大量に消耗する消耗業はなるべく縮小して、生きていくのに必須なものだけ残し、あとはインターネット上で繰り広げられるエンターテイメントだけで稼げる社会になった方が、エネルギー・資源の消耗を抑えられるようになるかもしれない。

ただしインターネットの問題は、そのシステムを構築したトップの人間と、わずかな数の幹部だけが収益のほとんどを牛耳ること。農家が十分な量の食料を作ってくれているのに、お金の配分が偏っているために、多くの人がお金を手にできない。わずかなお金しか手に入れられない。

お金は食糧など、生きていくのに必要な物資を得るための交換券。その配分がうまくいかないために、インターネット社会は、せっかく小消耗型社会に変われる可能性を秘めているのに、一部の人間だけが豊かな生活を送るいびつな社会になる恐れがある。

繰り返すが、農家の方たちが頑張ってくれているおかげで、99%の非農家は、配分さえできればみんな飢えずに生きていける。なのに、ごく少数の人たちががめついと、その配分が機能不全になり、生きていくのがやっと、あるいは生きていけないという状況になりかねない。

「インターネットはプログラムさえ作ってしまえばあとは自動で動くから、そのプログラムを作れる優秀な人間だけ雇えば、あとは人が要らない。だから雇用しないのは当然。雇用されたければ優秀な人間になればよい」という論がさかんに主張されている。しかしこの論はちとおかしい。

そもそも、そのプログラムを作れる立場の人間が1人いればたくさん、という状況で、同じくらい優秀な人間が10人いても、やっぱり1人しか雇おうとしないだろう。結局、今のインターネットのシステムは、経営者とごくわずかな技術者だけが富を独占する仕組みになっているだけのこと。

経済という言葉は、「経世済民」(世をおさめ、民をすくう)から来ている。ごく少数の人間にしか富が集まらず、その他大多数は低賃金にあえぎ、場合によっては生きていけないほどの貧困を味わうというのは、もはや「経済」ではない。経済は、民を救って初めて経済と言える。

インターネットは、今後、多くの人々、できれば非農業のほとんどを雇用するシステムに変えていくべきだと思う。そうすれば、農家が頑張って作ってくれた食料を、稼いだお金で買うという形で、みんなで分かち合うことが可能になる。しかし、こういえばきっと反論が出てくるだろう。

「インターネットはこれまでの産業と違って、ごくわずかな技術者がいれば回ってしまう仕組みなんだ。だから雇えと言われても、要らないものは要らないのだ」と。
しかし実は、今までの産業でも、そんなに人は要らなかったということを忘れてはいけない。

パナソニックの前身、松下電器の創業者、松下幸之助は、時の総理大臣である三木武夫首相が、不景気にもかからわらず、他国と比べて低失業率なのを自慢した時、次のようにたしなめた。

「いま、日本の会社は、みんな失業者を抱えとるのや。私どもでも1万人は遊んでいる。ほんとういうたら日本でも300万人くらい、すぐ出ますえ。出してもよろしいか」
そう。インターネットが生まれる前の工業社会でも、実は人は常に余っていた。しかしある信念があったから、雇用し続けていた。

従業員はただの労働者ではない。自分の会社の製品を買ってくれる消費者でもある。特に雇用する必要長くても雇用し、給料を支払えば、その人たちがものを買う。そのお金が会社に回ってくる。そうして日本は、誰も飢えずに済む社会になっているのだ、という信念。これはケインズ経済学の信念でもある。

日本はバブル経済の頃、「世界で最も成功した社会主義国」と言われた。ソ連や中国などの共産主義でも達成できず、アメリカやイギリスなど、他の資本主義国でも達成しえなかった、資本主義でありながら全国民が豊かに生きていける社会。それを日本はかつて実現できた国だった。

「社会主義国」という評価はちょっと皮肉が利いているが、日本はソ連などの共産主義国と違い、ケインズ経済学に見事に則っていた国だといえる。ケインズ経済学は、資本主義の強欲さを多少補正した修正資本主義と言えるもの。これを日本は実にうまく運用した。

ケインズ経済学は、アメリカの自動車会社、フォードの経営スタイルからかなりヒントを得ているもののように思う。フォードはちょっと変わった経営をしていた。当時の工場経営者は、労働者を低賃金でどれだけ長時間働かせるかが経営成功のカギだと考えていたが、フォードは違っていた。

なんと、週休2日、1日8時間労働、給料は破格に高い。「そんなことをしたら労働者をつけあがらせ、怠け、経営が傾くぞ」と、多くの経営者や投資家がフォードに警告した。しかしフタを開けてみると、フォードのこの経営方針は大成功。とんとん拍子で会社が成長した。

短い労働時間だから集中力が違う。製品の不良品率が下がった。給料が高いから意欲が違う。他の会社から優秀な職人がたくさんやってきて、技術がどんどん向上した。しかも十分な給料を支払っているので、自社の自動車を購入するお客さんにもなった。フォードは、給料を支払えば経済が回ると主張した。

戦後日本は、このフォードの経営哲学、ケインズ経済学によって改められた修正資本主義にのっとって、できるだけ多くの人を雇用し、できるだけ給料を渡し、そのためには経営者も出資者も収入をなるべく抑えて。こうして、富を可能な限り多くの人に配分する社会を形成した。

戦後昭和の日本でも、人は余っていた。しかし経営者は、人をなるべく大勢雇っていることを誇りにしていた。そして社会もそれを称賛する雰囲気だった。自治体も、なるべく地元の雇用を増やす企業を称賛していた。経営者は、人を雇用し続けることこそを誇りにしていた。

これがインターネット社会でもできないとは言えない。ごく少数の経営者だけが富を独占する形を改め、なるべく大勢の人を雇用し、給料を渡し、それによって農家が作った食料の配分を可能にする。そうした社会を実現することは可能なように思う。

問題は、インターネット社会に適応したケインズ経済学が十分練られていないこと。新自由主義の時代が続きすぎて、ネット社会で多くの人々を雇用するにはどうしたらよいか、という社会設計が追いついていない。これを早急に始める必要がある。

・農家は、99%の非農家が飢えずに済むだけの食料を作ること。
・エネルギー・資源をなるべく消耗せずに済む小消耗社会を目指すこと。
・小消耗社会を実現するために、比較的消耗の小さなインターネットで雇用を増やすこと。
・そのための社会デザインを考えること。
これらを真剣に考える必要がある。

誰も飢えずに済む社会。誰もがエンターテイメントを楽しめる社会。それでいてエネルギーや資源の消耗を抑え、地球環境を破壊せずに済む経済システム。これらを早急に構築する必要がある。時間はあまりない。多くの人たちが、この方向で知恵を結集していただけたらと願う。

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