自分の再教育(棚卸し)
私たちは親から、あるいは先生から、あるいはいろんな大人たちや世間から、知らぬ間に「呪い」をかけられる。これはこうすべき、これはこうでなければならぬ。「べき」「ねばならぬ」という呪いをかけられ、それを信じ込んでしまう。これはある程度仕方のないことかもしれない。
18歳になる前くらいから、父に繰り返し言われたことがある。「大人になったら、自分で自分を再教育するように」。
父は次のように語った。「あの時、お前にああしてやれてれば、と思うことがたくさんある。しかしいろんな事情があってどうしてもできなかった。それによる歪みがお前にはある」。
「どんな歪みが自分にあるのか、どうやったらその歪みを修正できるのか、自分で試行錯誤しながら見つけなさい」。
二十歳になり、大学に入学してから私は自分の再教育を行った。ある程度メドが立つのに三年の時間が必要だった。
小さな頃に何があったか思い出し、それが今の自分にどう影響したのか。そうしたことをどんどんメモした。自分はもともとそういう人間、と思っていたら、いろんなきっかけで性格や考え方が形成されていくことに気がついた。だとしたら、その歪みを修正することもできるはず。
こうした自分の再教育、あるいは棚卸しをすることって、大切だと思う。昨今は毒親という言葉もある。不必要に数多くの呪いをかけてくる親のことを指すのだと思うけど、そうした場合でも、自分で自分を見つめ直し、呪いを一つずつ解いていく必要がある。
私も我が子が大人になる前に、「大人になったら自分の再教育をするように」と伝えるつもり。私も知らず知らずに子どもに呪いをかけているかもしれない。呪いでなくても、子どもにこのタイミングでこれをしてやれなかった、という悔いがある。その歪みが子どもに残ってると思われるものもある。
大人になるということは、親からの教育を脱し、自らを再教育するようになることなのかもしれない。
多少大人は、理不尽さも必要なのかも。子どもにとって理想的な振る舞いをする大人(子どもにあれこれ言わず、叱ったり怒ったりすることもなく)ばかりに囲まれた若者が、大人になって大学を不登校になったり、会社に出られなかったりしたケースを複数観察した。親御さんは素晴らしい人格だった。
素晴らし過ぎて、理不尽なことをする大人や先輩と出会ったとき、衝撃が大きすぎて不登校になったり出社拒否になったケースだった。理想的な親や大人に囲まれると、理不尽に耐えられなくなるのか、という驚きがあった。
私は、子どもが耐えられる程度に、乗り越えられる程度に、いろんな人間がいることを知り、対応する術も知っておく必要があるように思う。あまりに理想的な大人ばかりで、理不尽を知らなさすぎると、実社会に出て適応できなくなる恐れもあるようだ。
「べき」「ねばならない」の呪いをすぐかけようとしてくる大人をどうあしらうのか。それを知っておくのも必要。呪いをかけないようにするばかりではなく、呪いのあしらい方を子どもには学んでもらう必要がある。
結局のところ、子育てとは、親もいなくなった世界で、赤の他人だらけの「第三者の海」に飛び込んで泳ぐ力を身につけてもらうこと。そのためには、いろんな大人がいること、その人たちとどう接し、どう距離を置くかを学ぶのが大切。理想的な人間ばかりではないこの世界を、楽しんで生きていく力。
そんな力を身につけてもらうには、親があんまり理想的な人間になる必要もないのかな、と思う。ひどい親にはならないようにしたいけど。そして、不完全な親に育てられたことによる歪みは、子ども自身に修復してもらう。そうしたことは、どうしても必要なのかな、と思う。