「第三者による子育てアシスト」が躾には必要
躾(しつけ)は親だけの責任だろうか?ということに疑問を投げかけたら、スポーツなど習い事をする場所に躾を期待せんといてくれ、最低限の躾は家ですましといてくれ、という、悲鳴に近い声を複数頂いた。その気持ちは分からなくはないので、ちょっと考えてみる。
https://note.com/shinshinohara/n/ndb41dd4c81c0
親御さんの中には、野球とか空手とか剣道とか、そうしたスポーツ団体に子どもの躾を丸投げする人がいて困る、という声があった。あまりにも無責任、と感じるケースがあるということだろう。子どもがあまりにも野放図で手が付けられないのに、親は丸投げ。それでは指導者も腹が立つだろう。
昔は「礼儀正しくなります」とかを勧誘のうたい文句にしていたけれど、最近そうしたうたい文句を見なくなったのは、あまりに丸投げな親御さんがいるので、うたい文句にするのをやめてしまったのかもしれない。
躾は親だけでは無理だと思う。さりとて、第三者だけでできるかというと、それはムリ。親と第三者との役割分担で躾は可能になるように思う。親と第三者が阿吽の呼吸で、この子がこうきたらああしよう、という形で躾はできるが、片方が丸投げではどうしようもないように思う。
剣道や柔道、空手といった武道では、礼儀正しさを学べるというイメージが強いけれど、親御さんの理解と協力がなければ、指導者でも指導しようがない。そういう意味では、躾の半分は親の責任といえるかもしれない。
ただやはり、躾は第三者の力が欠かせないように思う。その点で習い事の比重は昔よりも大ききなってしまったように感じる。昔はご近所づきあいも深く、近所にも子どもがたくさんいて、近くの公園に行けば年の違うこどもとも交流し、遊ぶことができた。第三者との出会いがたくさんあった。
しかし多くの人がサラリーマン、雇われ人。そして住む場所は寝るだけの場所。地域に利害が全くなく、利害がないから交流する理由がない。形式的に回覧板を回すだけで、お付き合いするきっかけもない。第三者と触れ合う機会が、子どもには絶滅状態になっている。
子どもの世界が、家庭と学校だけ、という家も増えているだろう。両親共働きだと忙しく、スポーツなど習い事に通わせる金銭的時間的なゆとりもないご家庭も増えているだろう。しかも「隣は何をする人ぞ」ご近所づきあいもなく、第三者との交流が欠乏した子どもが増えているように思う。
「子どもを礼儀正しくしつけます」ことをうたい文句にする習い事が減ったのは、第三者との交流が絶滅状態になり、習い事で初めて(学校以外の)第三者と触れ合うことになり、指導者としては「そこから教えないといけないのか」という戸惑いが増えてしまったからではないか。
両親がなんとか生活を維持しようと必死に働き、生活にゆとりがない状態になってしまったことで、子どもたちが第三者と触れ合う機会が減っている。「躾」とは、第三者と交流するためのテクニックの一つなのに、そもそも第三者と交流する機会がない、ということに大きな問題がある気がする。
子育てとは、親亡き後も「第三者の海」に飛び込み、自ら泳ぐ力を子どもに身に着けてもらうものだと思う。第三者との交流術を学ぶのが躾だとしたら、第三者との交流という練習の場が不可欠。なのにそうした場が学校にしかなかったりする。
「第三者交流欠乏症」に、子どもたちはなっているのかもしれない。しかも早期教育が流行っていた2000年代までの頃、他の人間が教育に口出しするのを嫌がった親世代があった。親が完璧な子どもを育てたいから、他人は余計な口出しをしてほしくない、という空気があった。
そのため、適切な第三者として子どもに接してみよう、という第三者を減らしてしまったように感じる。様子が変わり出したのは「ワンオペ育児」という言葉が出だしてから。あまりにも第三者からの手助けが少なくなりすぎ、親だけの単独の子育てが不可能になってから、様子が変わり出した。
今、子育てをしている親御さんの多くは、子育ては親だけではとても完結できるものではないということを痛感している。たくさんの人の手助けを受けてようやく子育ては可能、ということを知っている。しかし前の親世代が第三者を拒絶した「副作用」の被害を受けている感がある。
まあ、第三者の介入を拒絶した親世代の気持ちも理解できなくはない。子どもが何か不始末したらいくらでも起こって構わない、と勘違いしている大人は非常に多かった。理不尽な怒りを子どもにぶつけるケースも少なくなく、そんなのは子育てに役立つかというと、まあ、ねえ。
けれど、そうした極端なケースを拒絶しようとするあまり、子どもの様子を見て適切に介入することも可能な第三者を遠ざけてしまった感はある。遠ざけ過ぎた結果、保育園や幼稚園の新設の話があると「騒音だ」と子供の存在を拒絶する大人が増えてしまった面もあるように思う。
しかし。やはり子どもの成長には、適切な第三者の介入が必要。なぜなら、親はいつかいなくなるから。そして子どもはやがて、「第三者の海」に飛び込むのだから。課題は、どうやって第三者が子どもに関わっていくか、という点。
冒頭のまとめにも紹介してあるけれど、「大人は子どもにどれだけ偉そうにしても構わないんだ」というおかしな思い込みをしている大人は、第三者として不適切。そんな理屈は、自分のいら立ちを子どもの不始末つかまえてぶつけたいと思ってこじつけているだけ。それは迷惑でしかない。
子どもが何か失敗した時、叱ればいい、という単純な発想ではうまくいかない。むしろ「せっかく失敗したのだから」これをうまい機会にできないかな、と考え、声掛けに工夫をしてみたい。親の声掛けでは決して実現できない効果を、第三者の声掛けは可能にする。
3年前、電車の中で騒いでいる子どもに声をかけたツイートをしたら、えらくバズったことがある。
子どもにとって、第三者は決して自分に介入してこない「背景」でしかない。その「背景」から人間が飛び出してくると、子どもはびっくりして、以後、「人間」が見えるようになる。
https://corobuzz.com/archives/141255
周りにいるのは人間である、ということを教えられるのは、第三者だけ。親御さんがいくら言葉を尽くしても、「背景」から出てこないのは、ただの「背景」でしかない。背景から人間として、飛び出していかなければ。
電車のツイートがバズったとき、電車の中で赤ちゃんや幼児がぐずって困っているお母さんを見かけた時、どうしたらいいだろう?とメールで相談を受けた。私のアドバイスを受けたその女性は、さっそく電車の中で試してみたという。
大きな顔でぐずっている幼児を見て、ちょっと変顔しながら近づいて。すると、「背景」でしかなかったはずの電車の人波から「人間」が現れたのに子どもはビックリ。それでまず静かになる。お母さんの後ろに隠れたり。そしてお母さんに「かわいいですね、おいくつですか?」と声をかけた。
その声かけはとても重要。その声かけがあるまでは、電車内の雰囲気は「やかましいぞ、親なら子どもを黙らせろよ」という険悪な空気。母親はそれが分かるから必死に子どもをなだめ、静かにさせようとするのだけれど、子どもは聞いちゃいない。しかし子どもに変顔で向き合ったことでまず子供が静かに。
そして母親に声をかけたことで、しかも母親をなじるのではなく、子どもも母親も包摂するような声掛けをすることで、電車の中の空気も一挙に「小さな子供を抱えて、大変だよな」に変わる。そうした空気の転換のきっかけになる声掛け。
すると母親もその空気の変化を察知してホッとし、「2才になります。元気なんですけど、大変で」と、本音も言える。こうなると、車内の空気も融和的になる。今度は子どもが少しくらい声を出しても許す空気になる。実際には、子どもは知らない大人が話しかけてきたことに興味津々で静かなんだけど。
こうした、一期一会の、「袖すり合うも他生の縁」というか、ほんの瞬間の交流でも、第三者との接触は可能で、そうした経験で子どもは学んでいく。別に習い事だけが第三者との出会いだけではない。学校だけが第三者の出会いの場ではない。公共のところなら、どこででも。
ぜひみなさんに「第三者による子育てアシスト」をお願いしたい。あるいは、自らはアシストしなくても、アシストしている人に賛意の気持ち、理解を持っていただきたい。その気持ちを持っていただくだけでも空気は変わり、社会が変わるから。
第三者の子育てアシストは、「第三者の海」に子どもがスムーズにこぎ出でられるような、ちょっとしたアシストをしていただけるとありがたい。そうすると、子どもは自然と、「なるほどこうしたら、第三者の人と仲良くなれるんだな」ということを学んでいくから。
昨今、発達障害というワードがすっかり普及している。他者とのコミュニケーションに苦労する人たちがそれだけいるわけなのだけれど、私は、個人にコミュニケーション能力を求める今の風潮、違和感を持っている。個人のコミュニケーション能力が低下した、という話も違和感。
コミュニケーション能力を低下させたのは、社会とか、コミュニティの方ではないか、という気がしている。昔の日本社会は、少々の変わり者がいても「まあまあ、ええやないか」と受け入れ、それなりに付き合うコミュニケーション能力がコミュニティ側にあった。しかし今の日本では。
コミュニケーション能力まで「自己責任」にされてしまっている。この結果、定型発達でコミュニケーション能力にたけている人だけが社会で生きて行け、不器用な人は脱落せざるを得ない、非常に窮屈な社会になっている気がする。
私はもう少し、「第三者の海」にこぎ出でるのをアシストする「第三者による子育てアシスト」が増えてもよいように思う。そうすることで、子どもはどうふるまえばこの事態を克服できるのか、という事例集がたくさん体験として蓄積することになる。
子育ては社会全体で行うもの。親だけでは決して完結できない。第三者である私たちが、子どもたちに、「第三者の海に飛び込んでも怖くはないよ」と声をかけていただきたいと思う。それが子どもたちを育て、社会をいずれ活性化させるのだと思う。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/58764
躾の半分は、第三者が行う必要がある。たまたまその場に居合わせた大人が、子どもに、第三者として適切に接する。その積み重ねが大切なのだと思う。そうした「第三者による子育てアシスト」への理解が深まった社会になることを祈りたい。
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