宣伝がなぜウケないのか
どうやって宣伝したらよいか、と相談が。と言っても、私は自著の宣伝を時折するくらい。ただ、世にはキャッチコピーを作ることを生業とする人もいることを考えると、宣伝というのは奥深く、また幅広い世界なのだと思う。とても宣伝の世界を幅広く扱うことなんてムリだから、私の感じてることだけ。
私のTwitterでの狭い経験だけに絞った話だと。宣伝しようと思ってウケることはない。これを宣伝したい!という本音が隠れた書き込みはやはり宣伝臭のクサミがあるようで、面白いほど反応がない。「これを知ってほしい!」はウケないな、という印象。
他方、宣伝とかとは関係なく、「あなたにこんな覚えはないですか?」という話から入り、その体験をなるべくわかりやすく言語化して、どうしたらよさそうか、ヒントになりそうなものを提示する記事は、ほぼ間違いなく好反応。各自の記憶を蘇らせながら追体験する感覚が、自分ごとに感じられるのだろう。
私はコロナ前、ファミレスへ学生と一緒に食べに行ってた。
さあもう夜の12時、学生もトイレに行ったし、私の話も聞き飽きたろう、と思い、荷物を片付けて帰る用意を。すると学生さん、戻ってくる途中でフリードリンクに立ち寄り、「さあ、さっきの続きを」。結局深夜三時に。
私はぶっ続けで数時間、学生さんに話をすることが多かった。よくまあ私の一方的な話を聞きたがるなあ、と思っていた。ところが「学生は私の話を聞きたがっている」と思ったとたん、変化が。学生さんは私の話に首を傾げるようになり、時折異論を挟み、早くも切り上げたがるように。
なんだ、この学生もずいぶんえらくなったもんじゃないか、と、少々不満に思っていたら、その学生だけでなく、他の学生も同様の反応。
あ、これは学生が変わったんじゃなく、私が変質したんだ、と気がついた。私の話の何がおかしくなったのだろうか?
私は、自分の話したいことを話すようになっていたことに気がついた。つまり、身勝手な話ばかり。他方、学生が何時間経っても、深夜になっても聞きたがった話は「この学生はこういうことに関心があるのでは?」と私が仮説を立て、そのテーマに沿って試行錯誤で話をしていた。
学生は、何か自分の悩みにヒントになりそうな話が始まった、ということに気づくのだろう、姿勢が聞き逃すまい、という姿勢に変わる。私はその反応を見て、このテーマを少し掘り下げて言語化を続けてみよう、と話を続ける。
他方、学生の心の琴線に触れない話題は。なんだこれ?と戸惑ってる感じ。知らない話が続くなあ、と聞いてるフリになる。そういうときはサッサと話題を変える。手探りする中、「あ!それ関心あるやつ!」となると、学生は身を乗り出して聞く。
まあ、学生は大概、交友とか将来の仕事をどうするのかとか、強い関心のある分野は決まっているから、だいたい身を乗り出す。そして私の話したい自慢話ではなく、学生が思い悩んでいるだろうことを、自分の体験から思い起こし、それを言語化していく。すると共に追体験してる風になる。
つまり、私が一方的に話しているようで、学生の反応を見て、学生の聞きたそうな話をするとき、学生は私の話を何時間でも聞きたがる。話してるのは私だけでも、実は学生の反応を見て、双方向的にコミュニケーションが成立してる。そういうとき、私の話は学生にウケがよい。学生により添ってるから。
私はTwitterでも同様の形。子育て世代はこうしたことで悩んでいるのでは?と考え、その方面での言語化をはかる。すると、反応が強かったりする。もし言葉遣いが難しかったり、自分の思いの中に埋没してる時は反応が悪い。相手の聞きたそうな話をする、というの、とても大切。
「聞きたそうな話」というと、流行の話とかアイドルとか、当たり障りのない話を思い浮かべる人も多いかもしれない。けれど、「こういうことに話をしたい、聞きたいけれど、親しい友人にも重たいと思われなくないし」という話題に私は切り込む方。普段聞けないから、よけい身を乗り出すらしい。
宣伝もそうしたら?と思う。まずは自分が知ってほしいこと、宣伝したいことは忘れ、「こんなことに関心があるのでは」という話題の言語化をやってみること。そのうち、関心のある人が読むようになる。関心を持てば、この人は何者なんだろう?と興味が湧く。それで宣伝成立するのでは、と。