子どもに身に着けてほしい力「科学の五段階法」
友人と、子どもたちにどんな力を身に着けてもらったらいいだろう?と話をした。ChatGPTのようなものが出てきて、IT技術者さえ果たして安泰とは言えなくなってきた。一つの仕事を生涯やり遂げるということがすでに非現実的となる可能性もある。そんな時代に身に着けるべき力とは?
「科学の方法論」で一致した。私の言葉だと「科学の五段階法」ということになる。
まずは目の前で起きてることをよく観察し(観察)、何が起きてるのかを推測し(推論)、それを確かめられる方法を考え(仮説)、試してみる(検証)。その結果を見直す(考察)。このサイクルを繰り返す。
友人はMBA(経営修士)を取得したあと、いくつもの企業を渡り歩いてきた。全部違う業種。それだけでも大変なのに、どの企業でも新事業の立ち上げに関わってきた。その業界の知識もなく、しかもその業界人でも、誰も正解を知らない新事業の立ち上げ。全くの未知。
全くの未知であっても仕事をやってこれたのは「科学の五段階法」をやってきたからだという。その業界はどんな世界なのか観察し、どんな仕組みがあるのかを推論し、こんな事業を始めたら面白いんじゃないかと仮説を立て、それを試し(検証)、結果を考察し、また観察に戻る。これの繰り返しをしてると、
全く知識のなかった業界でも様子がわかってきて、何をすればよいのかがだんだんとわかってきたという。どんな分野に突入することになってもつぶしの利く力、それは科学の五段階法だった、という。私も同感。子どもたちには、この科学の五段階法を身に着けてほしいと思う。
でも実は、子どもたちに「科学の五段階法」は教える必要がない。赤ん坊の頃からその力を備えているから。赤ちゃんは言葉も通じないから、親は教えようがない。赤ちゃんが自ら試行錯誤の中で知識や能力を身に着けていくより仕方がない。親ができるのは健やかな成長を祈るのみ。
赤ちゃんは、これは一体何なのか、を知るためにともかく観察する。それは見るだけではない。かじったり味を確かめたり叩いたり投げたり落としたり四方八方から眺めたり、五感をつうじてありとあらゆる観察をする。その過程で赤ちゃんは、「もしかしてこういう仕組みでは?」といくつもの推論が立つ。
「だったらこうしたらどうなるのだろう?」と仮説を立て、例えば離乳食のスプーンやお皿を落としてみる。すると床に向かって落ちて音が鳴り、「なるほど、全ての物体は下に向かって落下するのか」ということを発見する。陶器が割れた場合は「こういう材質だと壊れてバイバイすることになるのか」。
こう声にすればママだと伝わるだろうか?こう足を伸ばしたら立てるのだろうか?こうした試行錯誤を、科学の五段階法に従って繰り返し、徐々に能力を獲得していく。赤ちゃんはいずれも、科学の五段階法の実践者。教えられずとも、未知の世界から知と技術を発見し、ものにする力を持つ。
赤ちゃんがすでに備えるこの力をそのまま伸ばせば、子どもは科学の五段階法を修得したまま育つように思う。しかし子どもはいつしか科学の五段階法を忘れてしまう。その大きな原因は恐らく、教えること。
子どもが言葉を話せるようになると、親は早く知識を身に着けさせようと、教えたくなる。教えられる事が増えると、子どもは次第に試行錯誤するのをやめていく。教えてもらうことで答えを「知った」気になるから、試行錯誤をしなくなる。こうして科学の五段階法を忘れていく。
決定的なのは、小学校に入学してから。小学校に入学すると、親は授業についていけてるか、教えてもらったことを記憶しているか、宿題をきちんとこなしてるか、を気にするようになる。子どもが様々なことに興味持ち、試行錯誤することを「余計なこと」として排除するようになる。
こうして多くの子どもたちは、試行錯誤を繰り返す「科学の五段階法」を「余計なこと」であると教え込まれ、興味を持つことを禁じられていく。未知の状態から知や技術を獲得していく力を失い、既知の、過去の誰かが見つけた正解を丸暗記することだけを求められるようになる。
友人が娘さんの話をしてくれた。散歩をしていて、オシロイバナが咲いてる株とまだ咲いてない株が隣り合ってるのに気づいて「なんでだろう?」と言ったという。そういう身近な不思議を発見し、面白がる感性を大切にしたい、と話した。私も強く共感。
私は息子から「なんでお風呂の鏡はくもるんだろう?」と聞かれたとき、「ほんとだ、なんでだろう?」といっしょに首をかしげた。もちろん、中学生の頃に習った飽和水蒸気量とか露点とか結露とかを教えることはできた。しかしそれをしてしまうと、子どもは思考することを止めてしまう。
それに、改めて考えると不思議だった。なぜ同じサイズの露が等間隔に並ぶのだろう?まるで鴨川べりに座るカップルのよう。しかし水に意志はないはず。なのに、どこかに気まぐれに集中的に結露して大きな滴になるのではなく、まんべんなく結露する。考えてみると、なぜだかわからない。
親の私が一緒に不思議がってると、子どもたちも「なんでだろう?もしかしたらこんなに仮説が成り立つのでは?」と仮説を立て、実験するようになった。息子は6年生、娘は3年生だが、今でも「実験してみよう!」とよく言ってる。変に親が教えようとしなければ、「科学の五段階法」は失わないらしい。
「科学の五段階法」を失わないための条件として、「不思議に思うこと」が大切なように思う。これは「教える」と深い関係があるけど、不思議に思う気持ちというのは「教える」ことによって打ち消されがち。教えられてしまうと「これはそういうもんだ」と結論づけてしまい、それ以上考えなくなる。
「科学の五段階法」が駆動するには「なんでだろう?」と不思議に思うことが大切。既存の知識で料理して納得するのでは、「科学の五段階法」は駆動しない。なぜなのかわからない、どう理解したらよいのかわからないという、不思議に思う気持ちこそが大切。
私たちの日常は不思議で一杯。たとえば、氷の上はなぜ滑りやすいのか、本当のところはまだよくわかっていないらしい。植物の上にホコリがたまらないのも理由がよくわからない。私たちの生きてる世界は、まだまだ不思議で満ちている。なのに分かったフリをするの、もったいない。
そしてもう一つ大切なこと。不思議に思うことを楽しむこと。
私達は教えられるようになってしまうと、知らないこと、分からないことを恥ずかしいことだと思うようになってしまう。「なんだ、そんなことも知らないのか」とバカにされるのではないか、と不安になって。
私は子どもたちに平気で「知らない」と答えるようにしている。実際、知らないことって多い。知らないことを知らないということは恥ずかしいことじゃない、と子どもたちに知っておいてほしい。そして「知らないこと、分からないことに出会えたのなら、それはラッキー!実験してみよう!」となる。
知らない、分からないことなら、それは少なくとも自分にとっての不思議。未知なる不思議にどう向かい合うか、観察し、推論し、仮説を立て、検証し、考察する、という科学の五段階法を駆動させるきっかけとなる。そしてなんとか正体ぽいものを突き止めたとき、「やったった!」感が味わえる。
こうして、知らないこと、分からないことを恥じるのではなく、むしろそうした不思議に出会えたことを喜び、科学の五段階法を駆動させて自分の力で発見するチャンスに巡り合えたことを楽しむ。こうしたことができれば、自ずと知識と経験と技術は増えていく。
・不思議に思うこと
・不思議を楽しむこと
・そのためにも「知らない、分からない」を恥じないこと
・むしろ不思議を見つけたことを喜ぶこと
・不思議を科学の五段階法の繰り返しで解き明かすゲームを楽しむこと
が大切なように思う。
これを生涯続けることができるなら、その子はどんな仕事に就いても柔軟に適応するだろう。不思議を楽しみ、科学の五段階法を回す。そうした力を、できる限り多くの子どもに身に着けてもらえば、世界はもっと生きやすく、楽しいものになるように思う。
大人の側としてできることは「よくそれに気がついたな」と、驚き、面白がることだと思う。大人がそうして子どもの工夫や挑戦、発見に驚き、面白がれば、子どもは自然に科学の五段階法を回すように思う。