富裕層に「必要とされている感」「貢献感」を取り戻すには?

これを書いていて、もしや、富裕層も「必要とされている感」、「貢献感」が味わえなくて苦しみ、迷い、戸惑っているのでは?という気がしてきた。で、気持ちの落ち着きどころを探すため、「私は金融を勉強した、その努力が向かわれたからお金持ちになった」と自分を言い聞かせようとしているのかも。
https://note.com/shinshinohara/n/n6d19dc107f07

所得税の最高税率が70%だったとき、こうした迷いを感じずに済んだのかもしれない。税金とられ過ぎだ、という不満がある代わり、社会にその税金が渡り、再分配に使われていると思えば、必要とされている感、貢献感のどちらも味わえたのではないかと思う。

けれど最高税率が45%まで引き下げられ、半分以上手元に残るようになると、お金持ちはさらにお金持ちになり、貧しい人はさらに貧しくなるという格差が生まれ、富裕層の人たちもイマイチ必要とされている感、貢献感を味わえなくなっているのかもしれない。

必要な分野に投資をすることで役に立っている、投資すればすべてを失うかもしれないんだからリスクを負っている、と必死に自己弁護せざるを得ないのは、もしかしたら一種の「逃避」なのかもしれない。そうでない面が大きくなっているのを、必死に覆い隠さないと良心が持たないのかもしれない。

富裕層の人たちも人間。必要とされている感、貢献感をもちたいと願っている人が大半のように思う。それが味わえない社会状況を作っているのは、とてもまずい気がする。

どこかしら、いじめの構図に似ている。リーダーが「今度はあの子がターゲット」と暗示すると、クラス全員がその子をシカトする。あるいはクスクスとささやき、冷笑してターゲットの子を精神的に追い詰める。その際、リーダー以外のいじめる側に回っている子らの心理はというと。

次のターゲットに自分がなっては大変。その恐怖が勝って、いじめられている子に手を差し伸べる勇気が出ない。本当はいじめる側になんて立ちたくない。しかしそれ以上にいじめられる側になりたくない。その恐怖心から、あえていじめる側の人間として立とうとする。

そして自分を何とかして正当化するため、「いじめられる側にも原因がある」と、理由を探し求め、それを口にさえして、後ろめたさをなんとか打ち消そうとする。もしかしたら、富裕層の一部の人たちが、貧困層を「努力不足」となじるのは、恐怖から生まれた発想、理屈なのかもしれない。

だとしたら、私たちの社会を支配しているストーリーを破壊する必要がある。それを突き崩す必要がある。
マンガ「3月のライオン」では、いじめられっ子に手を差し伸べた少女が、次なるターゲットになってしまう。そしていかなる本人の努力もあざ笑い、からかう材料にされてしまう。

この漫画では、いじめを終息させることができたのは、あるきっかけをつかんで先生たちが機敏に動いたことが功を奏したのだった。読んでいて胸をなでおろす思いだった半面、「なかなか、こうはうまくいかないよなあ」という暗い思いにもとりつかれた。

山本周五郎「さぶ」に登場する主人公は、人足寄せ場で巧みに支配構造を作り上げたやくざ者を、自分一人が悪者になればよいと腹をくくり、巧みに油断を誘って半殺しにする。そうでなければ元の雰囲気には戻せないと感じて。

人足寄せ場の役人は、後で主人公に「バカなことをした」と諭した。「我々はチャンスをうかがい、準備をしていたのだ」と。言葉で注意したり、理想論を説いてもこうしたことは解決しない。チャンスをうかがっていたのだが、と。しかしその方法がどんなものか、主人公がやっちまったのでわからずじまい。

戦前、共産主義やナチスが生まれて、富裕層は全財産を没収されるか、あるいは虐殺された。こんなことが現代に起きてほしくない。どうしたら未然に防ぐことができるか。つまり、富裕層の人も「必要とされている感」「貢献感」を味わえる社会にできるだろうか。

西欧やアメリカは、共産主義やナチスが台頭する前に外国でそれらの思想が吹き荒れているのを見て、変わるきっかけを得た。それらの思想に変わる経済思想として、ケインズ経済学が生まれた。ケインズは富裕層から貧困層に再分配が行われるシステムを提案した。

富裕層は「全財産没収されたり殺されたりするくらいなら」とケインズの提案を受け入れ、西欧とアメリカ、日本などは、ケインズ経済学で社会を再構築した。そのおかげで共産主義化を防ぐことができたばかりでなく、共産国より、公平なのに豊かな社会を実現することができた。

しかし今、「きっかけ」がない。当時、世界中で吹き荒れた共産化の嵐は、今は吹いていない。共産主義国であるはずの中国は、見事に資本主義化している。むしろ、アメリカをやがて追い越しそうな気配で経済成長を遂げた。独裁的な国家が経済成長するという事例が増えた。このために。

「再分配なんかせずとも、稼げる人間から稼ぐ先富論でいいんじゃないか?」と主張するものまで現れだした。いや、日本なんかは、中国の先富論に影響を受けた、トリクルダウン(お金持ちが稼げば、そのおこぼれが貧しい人にも来る)の考え方で経済運営され、格差はさらに広がった。

しかし注意が必要なのは、先富論はあくまで「国が富みさえすれば、その富を全国民に分配するステージに入る」ということが前提になっている。その点、共産主義の建前をなくしていないといえる。中国は習氏の指導で、その段階を始めようとしている。ただ、うまくいくかはわからないが。

戦前にはあった、「共産主義の嵐が吹き荒れる」という刺激、きっかけが、現代には見当たらない。そのために、富裕層の人たちが行動を改めるきっかけを得られないでいる。新型コロナをそのきっかけにしようという動きもあったが、早くに終息の気配を見せたら、再び新自由主義が息を吹き返した。

富裕層の人たちにも少なからず、現状を憂い、自分たちの生活がさほど脅かされないなら、再配分が行われることを受け入れたいという人はいるように思う。しかしそのきっかけが得られない。得られないどころか、「新しい資本主義」まで潰してしまった。

富裕層から貧困層まで、みんなが「必要とされている感」、「貢献感」を味わえる社会を形成できないか。そのためには、貧富の格差は(徐々にでも構わないから)縮小し、その上で、各人が自分の役割を求めて動ける社会に変わっていってほしい。

富裕層の人たちにも「必要とされている感」、「貢献感」を提供できる仕組みはないか。それによって、日本社会を建設的に立て直す方法はないか。私も考えるが、ぜひ皆さんからもアイディアを出していただけたらと思う。

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