「教える」の多くは幼児的欲求?

面白い体験を伺った。とある女性が初めてテレビゲームをやってみたら、普段からやってる息子が「そこはこうしたほうがいい」「次はこうなるから気をつけて」と教えてくれて、かなりうっとうしかった、と。他方、やったことのない夫は一緒にドキドキしながらうまくいくと驚いてくれて、嬉しかったという。

その経験から、人間には教えたがる本能があるのではないか、という指摘がなされていた。これは大変面白い話だと思う。教えたくなる本能、これについて考えてみたい。
私の考えでは、教えたいという気持ちは、「驚かしたい」という気持ちの変形なのでは?ということ。

テレビや雑誌、ネットなどで新しい情報を仕入れ、他の人にそれを教えると「へー!」と驚いてもらえた経験は、皆さんお持ちだと思う。教えるという行為は、人を驚かす行為でもあるのだと思う。それは恐らく、子どもの頃からの経験から生まれたもののように思う。

幼児はよく、「ねえ、見て見て!」という。昨日までできなかったこと、今日はできるようになったこと、新しく工夫したこと、今発見したことを伝えて、親や大人に驚いてもらおうとする。「へー!」その反応を聞いたら、また次の驚かしネタを探しに動き回る。

この「ねえ、見て見て!」は、まだ親が気づいていない自分の変化に気づいてもらおうと、伝える行為。これは、「教える」とも言い換えることが可能。親に教えて、自分の変化、成長に気づいてもらい、驚かそうとする。これが「教える」という衝動の起源なのでは、という気がする。

人を教えようとするとき、どこかで「へえ、よくご存じですねえ」と驚いてもらいたい、という欲求がどこかに隠れているように思う。幼い頃に「ねえ、見て見て!」と、変化に気づいてもらおうと伝えたその心の姿勢が、「教える」という行動に転化している気がする。おそらくこの道は連続している。

そう考えると、「教える」という行為は、幼児的欲求から生まれる行為なのかもしれない。近代教育学では、大人を権威に位置づけ、子どもは大人に教えてもらうもの、と捉えている。教えることは、子どもを育てるうえで必須のことだ考えてきた。でももしかしたら、それは勘違いだったのでは?

大人になっても教えたい。「ねえねえ、僕、こんなことも知っているよ!君と違ってこんなこともできるよ!」と言って、相手を驚かしたい。これが「教える」という行為の本態なのではないか。それを、しかつめらしい教育学が「子育てに必要なことである」と権威づけ、正当化してしまっただけなのでは?

もちろん、「教える」という行為をすべて否定する必要はない。村上もとか「龍」にこんなシーンがある。剣道を学ぶ若者が、先輩たちから小手を打たれまくり、右腕がはれ上がっていた。でも痛いのはどうでもよかった。どう逃げても小手を打たれる自分の弱さ、情けなさに悩んでいた。

自分には才能がない、もう田舎に帰ろう、と駅に向かっているところで同級生ともみあいになった。そこに師匠が通りかかった。たまらずその学生は「どうしたら小手を打たれないようにできるでしょうか?」と師匠に尋ねた。師匠はしばし間をおいた後、次のように答えた。

「攻めなさい!」
その学生は、逃げようとばかりして攻めることを忘れていた。そのことに気がつき、感激のあまり、雷に打たれたようになってしまう。その後、守りを忘れて攻めまくっていたらほとんど小手を打たれなくなり、傷も治ってしまった。

どうしても本人だけの視点では、何が問題なのか気づけないことがある。そんなとぐろを巻いている状態のときに、ヒントとなる言葉、つまり「教える」があると、突破口を開くことができる。こう考えると、「教える」という行為は、決して全否定すべきではない。有効な場面は必ずある。

が。効果てきめんな場面があるからと言って、「教える」という行為を全肯定できるかというと、私はムリだと考える。「君はできないの?僕はできるよ!」という幼児的欲求に基づいた「教える」が少なからずあるからだ。というか、そうした「教える」がもしかしたら大半を占めるのかもしれない。

私は、「教える」という行為はなるべく最小限にしたほうがよいと考えている。本人の力で気づけそうなら、教えずに済ませる。しかし、本人なりに知力を尽くし、工夫を凝らしたのにどうしても打開策が見えなくて困っているときに、「着眼点」を示す、という形なら、私はいいのかな、と思う。

でも、その際にも微に入り細の説明をするのではなく、着眼点、方向性は示したとしても、あとは本人の力に任せるほうがよいように思う。だって、そのほうが楽しいから。「ヒントはもらったけど、そのほかは自分の力で解決した!」という達成感は、実に気持ちのよいこと。それを奪わないほうがよい。

「教える」という行為は、推理小説の犯人を事前に教えてしまうこと、映画のクライマックスを教えてしまうようなこと。もしそんなことをされたら、そんな推理小説は投げ出してしまうだろうし、映画も見たくなくなるだろう。教えるという行為は、自分で答えを得る楽しみ、功績を横取りする行為。

本当に望ましい「教える」は、本人だけの力ではどうしようもないときにだけ、ほんのちょっとした気づき、着眼点だけを示して、それを足掛かりに本人の力でよじ登ってもらう、そういう最小限にとどめる意識が大切なのだと思う。そうすれば、子どもの達成感を横取りするようなことにならずに済む。

たとえば、英語で三人称単数のエスを教えるにも、「教えない」で子どもに気づいてもらうという形が望ましいように思う。HeとかSheとかIとかYouとか、主語は違うけど動詞も目的語も同じ文を並べて、生徒たちに「何か気づいた『法則』はあるかな?塾で習ったことのある子は黙っていてね」と問いかける。

動詞のお尻にエスがついている、と気がついた生徒がいたら、「よく気がついた!」と驚いてみせ、「じゃあ、次の例文は、エスがつくかな?つかないかな?」と、別の文章を書いて、その「仮説」通りにして正解になるかどうかを生徒たちに試してもらう。

このように、先生が先に教えてしまうのではなく、子どもたちに気づいてもらうやり方の方が、子どもたちは「自分たちで発見できた!」という喜びを味わえるし、記憶が定着しやすいように思う。クイズ形式だと、子どもたちも楽しみながら答えを能動的に考えようとするように思う。

大人になったら、「教える」という形で他人を驚かそうとしてしまう自分の幼児的欲求を自覚し、これをなるべく抑えめにし、相手がよほど困った時にだけ着眼点を示すにとどめる、という抑制的な姿勢が大切になってくるように思う。それが、大人になる、ということなのかもしれない。

子どもの頃に大人に驚いてもらったから、今度は大人になった自分が「驚き屋」となり、子どもたちに教えてもらう。三人称単数のエスがつくかどうかも、わざと間違った例文を書いて、子どもたちに「先生、間違ってる!」と指摘してもらえばよいように思う。

母校に教育実習に行ったときのこと。熱化学方程式というのを教えることになっていたのだけれど、ぶっつけ本番でやったら、教材に書いてある答えにならなかった。つまり間違えた。ここで必死に自分で考えて正解にたどり着いてもよかったかもしれないが、私は、長年考えていた「仮説」を試すことに。

「なあ、どこが間違っていると思う?」と子どもたちに訊いてみた。教室がざわめいた。え?京大生って賢いんちゃうの?と。隣とコソコソしゃべっている子がいたので、「なあ、そこだけで話さんと、どこが間違ってると思う?教えてえや」と声かけた。すると、「そこじゃない?」と教えてくれた。

「え?ここ?」するとまた間違えて、クラスのそこら中から「ちゃうちゃう、こっち!こっち!」と声が。「え?どこ?」と言いながら、生徒たちの意見を聞きながら、間違いを探した。20分くらいかかったろうか、なんとかかんとか正解にたどり着けたとき、「できた!拍手!」と声をかけると。

万雷の拍手が起きた。
あとで、受け持ちの先生から教えてもらったところによると、そのクラスは熱化学方程式だけは異様に正解率が高かったという。クラス全員が先生に教えてやろうと身を乗り出して一緒に考えたからかもしれない。

人間は、上手くできずにモタモタしている人を見ると、「貸してみい!」と取り上げて、自分が解決してしまいたくなる欲求があるらしい。自分の力で解決したい、という本能があるからだろう。ならば、親や大人は、子どもに「教えてもらう」ようにするのも非常に良い方法だと思う。

親や大人は、「教える」のではなく、子どもたちに教えてもらい、驚く側。なるべくそうした関係性にしたほうが、子どもの成長は著しく速くなるように思う。教えてもらうより、教えようとすることの方がはるかに難しいから、頭脳がものすごく刺激される。自分事になるので記憶も定着する。

親や大人が「教える」のは、子どもだけの力ではどうにも打開策が見えなさそうだな、というときに、「ここ、こうしたらどうなるだろう?」ときっかけだけ提供して、あとは子どもに任せる、くらいの、最小限のものにとどめ、普段は子どもに「教えてもらう」くらいの方がよい気がする。

教えたくなる欲求は、人を驚かしたい、という幼児的欲求に基づくことが多いのだとしたら、それを弁えたうえで、「教える」ことを必要最小限にし、「教えてもらう」関係性を気づくよう、工夫したほうがよいような気がする。

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