ユマニチュード 関係性を紡ぐ技術
ユマニチュードは、「関係性を結ぶ技術」と呼んでもよいかもしれない。
日本ユマニチュード学会で、医師の方が紹介してくれたエピソード。「お尻が褥瘡でひどいので入院した患者さんが暴れて診察できないので応援に来てもらえませんか」と頼まれた。5人がかりで押さえつけて診察しよう、と。
行くと、90歳を超える高齢男性なんだけど、ガタイがよく、耳がギョウザになってることに気がついた。そこでその医師はまず「関係性」を作ることにした。「すみません、もしかして若い頃、柔道やってませんでした?」と尋ねたところ、「なんでわかった?」と。
「得意技はなんだったんですか?大外刈り?そりゃ豪快ですねえ」等と患者とうちとけた関係性を築いてから「体を横にすることできます?」と頼むと、体を横に起こしてくれた。「お尻のキズを見せてもらっていいですか?」というと、簡単に見せてもらえたという。
なぜそれまでの医師たちだとキズを見せてもらえなかったのだろう?もしかしたら患者との関係性を築くのを怠り、「褥瘡」というキズしか見ず、患者その人を見ていなかったのではないか。「褥瘡」というモノ扱いして、人として見てもらえない、と患者に感じさせてしまったのかもしれない。
ユマニチュードの心得があったその医師は、病室に無断で入ることをせず、ドアを3回叩いて反応があるまで入ろうとせず、了承が得られてから入室し、高齢者は視野が狭い場合があることを考慮して、距離のあるうちから患者の正面の視野から近づくようにし、語りかける時は顔の正面に近づいた。
こうして相手をビックリさせないように近づきつつ、まずは相手のことを人として知ろうとし、相手に興味を持ち、言葉を交わす。すると「この人は自分の意向を無視しようとしない、話を聞こうとしてくれる」と感じ、この人の言うことなら聞こう、という気になる。関係性を結んでからだと、色々容易。
しかし関係性を築かずにいきなり入室し、患者の了解も得ずにズボンもパンツも下ろしてお尻を見ようとしたら、そりゃ反発する。ガタイのいい元柔道家なら、年をとっても暴れたら大変な力。押さえつけようと5人のスタッフがそれなりの時間拘束されたら、かなりの労力、コストとなる。
しかしユマニチュードの手法に従い関係性を構築するなら、たった一人の医師が数分話すだけで容易に患部を見せてもらえる。どちらのほうが手間暇コストがかからないか。関係性を構築することでスムーズにことが運ぶなら、こちらのほうがはるかに省力。
私の職場に、全然働かないことで有名な人がいた。ところが私の案件はとても精力的にこなしてくれる。なんでだろう?と考えると、他の人達はそのスタッフに対して、人としての関係性を築かずに「役職ロボット」とみなしていたらしい。この役職ならこう動くのが当然だろ、というロボット扱い。
私はその人の役職のことなんか忘れて、その人に興味を持ち、いろんな話を聞いて面白がった。荷物を運ぼうとなったとき、その人も一緒に運んでくれた。私は「ありがとうございます!助かります!」とお礼。運ぶのはその人の役職の仕事だったけど、私の案件だったから、私は全部自分でやるつもりだった。
でもその人が手伝ってくれたから、望外の喜び!ということでその人に感謝した。それがその人にとって、「人間として見てくれている」と感じてくれたのかもしれない。他の人達は、「その役職ならこれくらいするの当たり前だろ」と「役職」だけ見て、その人そのものを見ていなかったのかもしれない。
私のもとに、初対面にも関わらず、何でも悪く取り、攻撃的な発言をする人が来た。どうやら誰かから私の悪口を聞かされて、最悪の印象を抱いていることが察せられた。ここで私がこの人を「文句製造装置」「私の悪口しか言わないスピーカー」とモノ扱いしたら、何も改善しなかったろう。
私はその人の皮肉にいちいち怒るのも、その人の文句に一つ一つ反論するのもムダだと諦めて、関係性をまず作ろうと考えた。
「私のことはひとまず置いといて、どんなお仕事されてきたのか教えていただけますか?」「へえ、それはどんなところが面白いのですか?」「いろいろ苦労があるのでしょうね」
相手に興味を持ち、その人の話を面白がるようにしてみた。すると、しじゅう険しい表情をしていたその人の顔がしだいに柔和になり、笑顔も出て、笑い声も立てるようになり、私との会話、関係性を楽しむようになってきた。すると「実は篠原君の悪口を聞かされていて、かなり悪い印象を持っていたんだよ」
誰から悪口聞かされたのかまで白状してくれた。その人とは以後、私に非常に好意的で、いろんな場面で応援してくれるようになった。
ユマニチュードは、相手に興味を持ち、関係性を作ることで、様々な問題を軽減する技術なのだと思う。この技術は、介護や看護に限られない。
なんなら、人間に縛られない。私が入試で忙しかった頃、ネコの世話はもっぱら弟が見ていた。エサもこまめに上げるし、お気に入りのエサを自分のお小遣いから買い与える熱愛ぶり。よく抱っこして上げ、撫でて上げていた。他方私はろくにエサも上げず、撫でてもやらなかった。ところがなぜか。
私の方にネコが懐いた。どう考えてもネコへの愛情、ネコの世話の積極性も、弟のほうが上。なのになぜ?
観察してると、当時の弟はネコの様子を見ずに「自分の世話で喜ぶネコ」という、空想のネコばかり見ていたらしい。大好きな缶詰めを買ってきたら、喜ぶ様子を見たくて眠ってるネコを起こしてエサを。
帰ってきたらネコを撫でたくて、押入れに入って寝てるネコを引きずり出して、撫でていた。ネコの都合を考えず、想像上の「自分の世話で喜ぶネコ」を見ていたために、ネコは「自分を見ていない、こっちの事情なんかお構いなし」と感じ、逃げるようになってしまった。
他方私は、寝ているネコを撫でることはしなかった。エサを上げることもしようとしなかった。受験勉強で忙しかったからだけど。でもたまに、撫でてほしくてネコの方から近寄ってくることがあった。私は仕方なく、その時だけ撫でていた。
家に誰もいないとき、お腹が減るとネコは鳴いた。仕方ないから私が与えた。
これがネコには居心地がよかったらしい。自分を見てくれている、自分の気持ちを推し量ってくれている、と感じたらしい。ネコと私との関係性を壊さないようにしていただけなのだが、それがネコにはありがたかったのだろう。当時、優しいのだけど一方的な弟からは、ネコは逃げるようになってしまった。
冒頭の褥瘡の話も、最初診察しようとした人達はよかれと思って診察しようとしたのだろう。間違いなく優しさから生まれている。しかし優しさからきてる行為なら全て許されるのか、というと、おそらくそうではない。人間は、あるいはネコでさえ、まずは関係性を作りたい。話はその後。
ユマニチュードは特に、認知症患者であっても関係性を結べるようにするための技術として発達してきている。ただ、ユマニチュードの精神が「関係性を結ぶ」ことにあるならば、それは患者との関係性にとどまらない。非常に多岐にわたる場面で応用可能。
ユマニチュードを、「関係性を結ぶ技術」として捉え、高齢者や認知症患者にだけ向ける技術ではなく、関係性を結ぶ場面ならどこでも応用可能、と見たほうが面白いと思う。ユマニチュードは、もっと拡張できる技術のように思う。