「男は甲斐性」からの脱却
YouMeさんと付き合うまで、「野菊の墓」は名作だと思っていた。教科書にも作品名が紹介されてるし。「男に都合のいい話よね」と言われたとき、・・・ホンマや!目からウロコ!
え?ほんなら「伊豆の踊子」は?え?これも?
森鴎外「舞姫」は?ひどい男の極致?そうか、そりゃそうやなあ!
この三作は、男が大した努力もしないのに惚れられるという、男の願望がそのまま箱詰めされた作品だと解釈すると実に解像度が上がった。これらは教科書にも「名作」として紹介されてるので、いいものだと思い込もうとしていた。でも、女性の立場から見たら、なんとも男性に都合が良すぎだ、と。
岩崎宏美「聖母たちのララバイ」についても、考えてみたら、自分たちを戦士と見立てたビジネスマンが、母親に甘えるように女性に甘えさせてくれ、という内容。男に都合がよすぎる話。ではなんでそんな物語や歌謡曲がヒットしたのか?
男性に経済力が集中していたからだろう。
男の心の機微に触れる作品を発表すれば売れる。だから男性に都合の良い作品が量産されたのかもしれない。そしてそれらが名作と称えられたことで、その世界観を当然のものとして受けとめる男性を量産する効果もあったのかもしれない。私も残念ながらその産物の一つだった。
消費の重心は女性に移りつつあるように感じる。女人結界を貫いてる「男の山」大峰山でも、麓に降りると女性に人気のカフェがたくさん並んでいる。昔はたくさんあったという男性向けの歓楽街はとっくの昔に滅んで見る影もない。消費の軸足は女性に移っている。
経済力が女性に移り始めたこと、消費の中心が女性になりだしたことが、男性に都合のよい価値観にヒビを入れ始めたのかもしれない。男に媚びを売ってもお金が無い出てこなくなったから。他方、女性は(生活にゆとりがあるなら)オシャレだったり可愛かったり美味しかったりすると消費を惜しまない。
男性は、小説や歌謡曲などの作品で増強されてしまった思い違い(男に都合のよい物語)から脱却する必要がある。ところがこれがなかなか難しいらしく、抜けられない人も目立つ。でも、一度女性視点で「野菊の墓」読んでみよう。なんでこんな男に惚れたのか、わからない。優柔不断だし。
「野菊の墓」、「伊豆の踊子」、「舞姫」のいずれも、将来それなりの社会的地位を得るであろう男性ばかりが主人公。冷静になってみると「経済力か・・・」となってしまう。男性が経済力を失ってしまったとき、女性に惚れられる力とはなんだろうか?そこを見直さないといけない気がする。
「男は甲斐性」という言葉がある。男は嫁さん子どもを養う経済力が大切、という意味なのだろう。これはいろんな意味で問題のある表現かもしれない。男は経済力さえあれば他の努力をしなくてもよい、という裏メッセージを受け取りかねないし、経済力がなければダメなのか?という呪いにも聞こえるし。
でも他方、経済力のある男性がモテるというわけではないことも、私達は知っている。経済力があっても昨今はなかなか結婚できなかったりする。結婚願望が強くても、経済力だけでは、惚れられたい女性からなかなか好意が得られない。
日本の男性は長らく、経済力さえあれば結婚できるという構えで来たために、経済力とは別の力を求められてもそれはどうすればよいのかわからないし、昨今は経済力も怪しくなってきた。経済力以外のスキルを磨かないといけないのだけど、それはどんなものかも見当つかない。
男性は、経済力以外を求められて来なかったという甘い時代が続いたために、ノウハウの蓄積がなさすぎる状態。これが少婚化の原因の一つかもしれない。「あなたは経済力さえ身につければいいの、そのためには勉強できればいいの」という育てられ方したら、身につけるべきものも身につけられない。
男の子はどうも、気遣うより自分の楽しみを優先する生き物であるらしい。だから気遣いというものがそもそも苦手な部分があるかもしれないけど、江戸時代には男性には男性なりの気遣いの文化があったことが思い起こされる。経済力以外の魅力をどう高めるかも、重要な視点になりそう。
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