一方的関係性、相互的関係性
昔は、アイドルとかヒーローとか偉い人、お金持ちになって、たくさんの人からチヤホヤされるのが憧れの存在、人もうらやむ存在、だったのかもしれない。今も、そうした存在に自分がなることを望んでいる人は少なくないと思う。でも、「違うんじゃない?」と気づきだしている人も増えているように思う。
たとえば出世して、偉い人になって、誰もケチをつける者がおらず、みんながヘヘーッと頭を下げる存在って、幸せなんだろうか?心の中でどう思われているかって考えてみると、恐ろしい。
菊池寛の『忠直卿行状記』で、武術が大好きな若殿様の話が。家来相手に稽古して、全戦全勝。自分は一番強いと信じていたら、ある日、木陰から家来同士でしゃべっている声が。「若殿もずいぶん上達して、負ける芝居が楽になってきたよ」。若殿、衝撃。
その後、若殿は家来を試すようなことばかりした。そして本音を言わぬと見たら斬り殺した。ついに家来の妻を誘拐した。その家来は怒りのあまり、歯向かおうとした。
若殿はその様子を見て喜んだ。ついに自分に本心をむき出しにする者が現れた、と。けれど家来はこらえ、引っ込んだ。若殿はガックリした。自分を君主と奉って、自分と本音で向き合う人間がどうしても出てこないことに、絶望した。
チヤホヤされるというのは、「裸の王様」になるリスクがある。本当は醜い裸をさらけ出し、周囲から笑われているのかもしれないのに、みんなから「素敵なお召し物で」とおだてられ、それを本気の言葉として受け取ってしまう。勘違いした、ニセの人生を歩んでいることに気づかずに終わってしまう。
俺はそんじょそこらの人間とは一味も二味も違うんだ、と周囲に認めさせようとし、自分を敬えと要求する人は、世の中で結構見かける。しかしそれは「自分を裸の王様として扱ってください、ニセの人生を歩んだまま気持ちよく生きさせてください」と言っているようなもの。
藤子不二雄「モジャ公」に、その星にいるとみんな幸せな気分になる、という話がある。脳に直接映像や感覚を送り込み、実際には今にも餓死しそうなのに、ちやほやされ、おいしいものを食べ、幸せな気分にさせられる、という話。みんなからチヤホヤされる、というのはこのモジャ公のようなもの。
「自己肯定感」という言葉がある。裸の王様は、誰も裸を指摘しないのであれば、きっと自己肯定感は強いだろう。みんながチヤホヤしてくれるし、センスがいいと言ってくれるし、敬ってくれる。でもそれは偽りの自己肯定感。ニセの人生。自己肯定感にそっくりの、自己欺瞞感。
とあるウェブ会議で、とても偉い先生(と言われる人)が登場した。紹介した人は弟子なのか、偉い先生が長広舌を披露するのを全然止めることができない。その会議ではたくさんの人の意見を聞く必要があるのに、その都度偉い先生が話を盗ってしゃべるもんだから、もはや独演会。みんな内心諦めモード。
あ、こりゃ今日の会議はこの先生の独演会で終わってしまう、と思い、「時間も限られています、他の人のご意見も聞きたいので、○○さん、いかがですか」議事進行を私が勝手に買って出て、偉い先生の話の腰を折った。偉い先生は、私の意図を察して、その後は黙ってくれた。
人間は偉くなると、チヤホヤされると、「裸の王様」になってしまうらしい。権威が周囲を黙らせてしまい、周囲がどう感じているのかを把握することができなくなってしまう。これは怖いことだ。知らぬ間に裸の王様になってしまう。そして私のような「子ども」に出会わないと、裸であることに気づけない。
若手官僚の立ち上げたMLで、私は産業空洞化が急速に進んでいる実態について、報告した。すると「@オーストリアからの帰国子女」と名乗る若手官僚が、偉い経済学者か何かの受け売りを書いて反論してきた。自分の地位の高さと帰国子女、偉い経済学者の名前で私を黙らせようとした様子。
私は「@中小企業が多い東大阪市に隣接する町で育った人間」と名乗り直し、オーストリアみたいな外国に行ってて、現場も見ていないで何がわかるの?と返し、東大阪市で工場が閉鎖し、マンションに建て替わっていく様子をレポートした。そしたら官僚のかなりが怒ったらしく、「篠原を退会させよ!」
私は「すみませんでした、退会します」とメールを打った。そしたらML管理者から即座に電話があり、「篠原さん、やめないでください!」と説得された。じゃあ、ということで退会しないでいたら、官僚が60人ゴッソリMLから退会した、とあとで主宰者から聞かされた。
その60人は、どうやら「裸の王様」だったようだ。本当のことを告げられると怒る人たち。MLに残った若手官僚らは、「篠原さんの言葉、きついなあ」と言いながらも、受けとめる度量のある人間ばかりが残った様子。後で聞いたら、「篠原をとるか、俺たちをとるか」と主宰者は迫られたらしい。
別に私を守るつもりはないのだけれど、篠原は特に問題のある発言をしたわけではない、と伝えたら、60人ゴッソリ抜けたらしい。「弱りましたよ」と主宰者からは、笑いながら愚痴られた。
この経験から感じたのは、学歴エリートで出世コースを歩んでいると感じている人の中には、「裸の王様」化している人がそれなりの割合含まれているということ。他方、同じように出世コースにいるのだけれど、耳に痛い言葉も聞く必要がある、と考える人物もいる、ということ。
「良薬は口に苦く、諫言は耳に痛し」という。本当の言葉は受けとめるのがつらいことがある。けれど、その言葉を受け止める覚悟がないと裸の王様になってしまう、ということを理解している尊敬すべき人は、一定数いる。それは信じて構わないのではないか、と思う。
では、同じ「偉い人」でも、「裸の王様」と、「諫言にも耳を傾ける本当に尊敬すべき人」は、どういう違いがあるのだろうか。
前者は、「自分を敬え、尊敬しろ、チヤホヤしろ、感謝しろ」と、要求する関係性が一方的。こちらからの反応は、相手の要求通りのものでないとダメ。それ以外は受け付けない。拒絶される。
後者は、自分が働きかけるだけでなく、相手からの働きかけを「待つ」姿勢がある。相手が投げたボールを自分が返し、相手が再び返してくるのを待つ。キャッチボールになっている。関係性が相互的。そして、相手がどんな球を返してくるかも、相手任せ。相手次第。自分から押し付けない。
前者は、自分を大切にしろ、敬え、それ以外の関係性は認めない、それ以外の対応をする奴は拒否する、という「一方的関係性」なのに対し、尊敬すべき人格の人は、相手がどんな対応を返すのかも相手任せ。その前提で、関係を共に紡いでいく「相互的関係性」。
「一方的関係性」を求めてしまう人は、もしかしたら幼児的欲求に囚われているのかも。赤ちゃんは自分で食事をとることもできず、下の世話も他人任せ。だけど他人は自分のためにすべてをやってくれる。その時の万能感を再び取り戻したい、という気持ちを持っているのかもしれない。
でも通常、子どもは成長する過程で「他人はどうしようもない存在」だと理解する。育児支援室や保育園、幼稚園、小学校などで他の子どもたちと出会い、強い刺激を受けつつ、他の子らが全く自分に構おうとしない別人格であることを思い知る。他人を自分の欲望に従わせよう、ということをここで諦める。
しかし偉くなり、チヤホヤされると、赤ちゃんの頃に味わったあの万能感を回復したいと思うのかもしれない。一方的に世話してくれるあの関係性を取り戻そうとしてしまうのかも。それは幻想でしかないのに。そして、幼児的、いや赤ちゃん的願望なのに。
子どもは通常、保育園や幼稚園、あるいは小学校で他の子どもたちと出会い、他の子らが自分の意向に全く従わないのだけれど、だからこそ刺激的で面白い、ということに気がつく。「相互的関係性」の楽しさを学ぶようになる。それが大人に近づくことでもあるのだろう。
チヤホヤされるために勉強し、努力を重ねた人たちは、学歴とか社会的地位とかお金とかの外面的な飾りで、再び周囲をひれ伏せさせようとする。赤ちゃんに大人たちが右往左往した時と同じように。しかしそれは、赤ちゃん的願望なのではないか。「一方的関係性」は、無理のある関係性ではないか。
相手も人なり、我も人なり。互いに人として認め合い、自分が投げたボールに相手が意外なボールを返してきた。その相互のやり取りを楽しむ「相互的関係性」は、大人の楽しみなのではないか。もう赤ん坊のころには戻れないことを達観した、大人の世界。
どうやら、チヤホヤされたいという「一方的関係性」は赤ちゃん的願望であり、互いにキャッチボールを楽しむ「相互的関係性」は大人の関係、ということに、気づきだしている人は多いように思う。だから、芸能人でも結婚相手をテレビで明かさない人が増えてきたのでは。
昔は、有名になりたい、チヤホヤされたい、というのは、ごく普通の欲求であり、健全な夢だと思われていたフシがある。けれど、有名人でも最近は結婚相手が姿を現したがらないのは、それが赤ちゃん的願望であることをすでに見抜いている人が増えているからではないか。
ツイッターは、どんな有名人でも「炎上」する恐れのある、ある意味恐い世界。否応なしに「相互的関係性」となる。もし一人悦に入って「一方的関係性」を築こうとしても、その傲慢さを見抜かれ、さんざん痛めつけられる。「一方的関係性」が成立しない世界。
SNSは全般、その傾向がある。相互的関係性が築きやすく、他方、一方的関係性が築きにくい社会になってきた。ならば、そろそろ、一方的関係性に憧れること自体、諦めたほうがよい時代に入ってきたと考えたほうがよいのかもしれない。
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