教育・ビジネス系のインタビュー記事で使われがちな言葉
これまで何度かインタビューに応じてきたけど、記事の大筋は問題なくても、言葉のチョイスで違和感を感じ、直してもらうことが毎度。
たとえば上がってきた原稿はたいがい「成功はよいこと、失敗は悪いこと」というイメージで書かれている。これが世間一般のとらえ方だから仕方ないけど。
私は逆に「成功はつまんない、失敗こそ学びがたくさんあって面白い」と捉えている。それを原稿に反映してほしいのだけど、「成功させるには」「失敗させないためには」なんて語句を使えば、失敗はしちゃいけないもの、成功は目指すべきもの、という文意になってしまう。私はそれを避けるため、全直しをお願いする。
私は、人間は成功からは学べない、失敗からしか学べないと考えている。失敗すると、それはこちらが想定していないことが起きたということ。ならば、なぜそうなったのかを観察すれば、たくさんの収穫、知見が得られることになる。だから失敗は避けるものではなく、積極的にしにいくべきもの。
あれを試してみて、これを試してみて、という試行錯誤の過程が一番面白い。何が起きても新しい発見がある。しかし成功してしまうと、新しい発見の旅が終わってしまう。つまり成功は、試行錯誤と挑戦と新しい発見の旅の終わりを告げる、つまらないものと捉えている。
なのにどうもインタビューする人は、これまでの記事での思考の習慣が抜けないのだろう。「失敗を避けるには」とか「成功に導くには」みたいな、よくあるフレーズを用いがち。でもそうしたありきたりの言葉を使った途端、私の考えとは違ってしまう。文章書くにしても、自分の思い込みを外すのは難しい。
あと、語尾に「のです」を使いたがる傾向が、教育系やビジネス系のインタビュー記事にはあるらしい。私はこの語尾、偉そうだし、自分の見解を絶対正しいものと捉えている感があって、好きになれない。はっきり言えば嫌い。人が使ってるのはまあいいけど、自分が語ってるようになるのはイヤ。
実は最初の部下育成本でも子育て本でも「〜のだ」「〜のです」の語尾が使われている。最初の本の時は、文章を書く時はこうするものかな、と思って書いてしまった。2冊目の子育て本の時には、「のです」嫌いを自覚して相当抵抗したのだけど、編集の都合でその表現を採択することに。
でも、その後の本では「のだ」「のです」は極力使わないようにしている。
しかし、インタビュー記事になると、もう確実に「のだ」「のです」になる。偉い人の御託宣みたいにする必要がある、という「思い込み」が、教育界やビジネス界には強いためらしい。
でも私は、「答えは自分の中にはない、常に目の前の子どもや部下の中にある」という考え方。まずは子どもや部下をよく観察し、そこから推察されることで対応を組み立てる必要がある。なのに「こういう時はこうすればよい『のてす』」なんて語尾にしたら、矛盾してしまう。
だから私は、「のです」「のだ」をインタビュー記事から撲滅してもらっている。これだけで結構真っ赤になる。
「深く考える」という言葉も、ビジネス界や教育界では好まれるらしいけど、私は「考える」というのは「休むに似たり」と思っているので、別にありがたがらない。むしろ避けている。
自分の中の材料だけで「考える」と、ろくなことにならない。「観察」することの方が大切。子どもや部下をともかくよく観察し、そこから得られる情報から仮説を紡ぐ。一人で考えてるより、観察、観察。
私はインタビューで「観察」の重要性を何度も強調したつもりなのだけど、やはり常識が邪魔するのか
「考えて行動する」という、よくある教育書やビジネス書の書きぶりになりやすい。でも、観察せずに考えて行動したことはたいがいろくでもない。考えると観察眼が曇り、思い込みが入って観察の邪魔にもなる。「考えるな、感じろ」というブルース・リーの言葉が適切。
そんなこんなから、私は、自分の考えていることをなるべく誤解の少ないように伝えるために、言葉のチョイスにかなりシビアであるらしく、インタビュー記事はもれなく真っ赤になる。
本を書く際、「シャドーライター使いますか?」と言われたことあるけど、私は無理だな。真っ赤に修正するから。
あ、あと、子育て本やビジネス界で多用されていて、私が避けてる言葉がある。「〜して上げる」。これ、すごく上から目線だし、自分を優れた知識のある人間、相手を愚かで知識のない人間、と仮定していることがものすごくよく伝わる語尾。私は記事にあるこの言葉を徹底して除いてもらっている。
代わりに私が多用するのは「〜してもらう」。「〜して上げる」と「〜してもらう」にはどんな違いがあるかというと、
・行為者は自分か相手か。
・相手は受動的か能動的か。
・相手を愚かとみなすか賢明とみなすか。
など。基本姿勢がまるで違うことが分かると思う。
でも、子育て本や部下育成本を買う人は親や上司であるため、その人たちを喜ばすような語句を選びがち。「〜して上げる」なら、親や上司は、子どもや部下に恩恵を授ける偉い人、優しくて強い人、みたいな感じになる。そうした心理をくすぐるための言葉のチョイスなのだろう。
しかし私は、「〜して上げる」という心構えこそ、子育てや部下育成の邪魔になるものだと問題視してるので、その表現を避けまくる。「〜してもらう」に変えてもらう。インタビューを受けてる時もその話をしたはずなのだけど、たいがい記事には「〜して上げる」が登場する。思い込みはなかなか抜けない。
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