「反ワクチンデマ」考
「反ワクチンデマ」考。
まずはじめに。私はワクチン打つ予定。けれど、不安があってワクチン打たない選択する人がいても不思議に思わないし、ワクチンを無理に勧めるつもりもない。ただ、もし相談されたら「打った方がいいと思う。ただし自分で決めること」と答える。
私も最初、RNAワクチンなんて初めてだから不安があった。しかし新型コロナに効果が高いこと、副反応の強さもオープンに話されてること、今のところ身近に後遺症が残った人は見られないことから、利益が不利益を超えてると判断、早々に打つことを希望している。
私も不安だった時期があるので、ワクチンに不安をもつ人が少なくないのはわかる気がする。長期的に後遺症が出るケースもあるかもしれないから、そこが心配な方もいるのは無理もない。何しろ初めてのことだから、不安が拭いきれないのは確か。
ただ、「二年後に死ぬ」「不妊になる」という後遺症があると「決めつける」のは無理があると考えている。何かしら後遺症が残る人が出るリスクは否定できない。初めてだから。けど、特定の後遺症が出ると「決めつける」のは、初めてのことだからこそ、無理がある。
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無理があるのだけど、「デマを信じ込んでいる」と批判し、「科学的リテラシーがない」と断じて否定するのもまた、傲慢すぎる態度のように思う。何しろ、医者や科学者の肩書き持ってる(真偽は知らない)人の一部もこうした意見に荷担してるケースがあるらしく、誰を信じたらよいのかわからなくなって当然。
私はたまたまRNAもPCRもウイルスも抗体も実験しており、勘所がわかる。一時、「俺はPCRの会社の社長だから専門家だ」といって暴論吐いてた人がいたけど、「あんた、一度もPCRの現場踏んでへんやろ」と、現場の感覚から見破ることができた。体験あることなら、エセ専門家かどうか私は見破れると思う。
でも私に現場の体験がなかったとしたら。誰が本当のことを言ってるのか見破るのは至難だと思う。私も「ワクチンは(メリット以上に)危険」と信じるようになったかもしれない。ワクチンの効能を信じるか、あるいは危険性を信じるかは、自分が信頼置いてる人の意見に左右されたろう。
では、人間は誰に信をおくようになるのだろう?自分の不安や戸惑い、弱さを否定せず、それはもっともなことなのだよと肯定し、気持ちに寄り添ってくれる人なのだと思う。
あれ?これ、いわゆるデマを流す人に多くて、「科学的リテラシー」のある人に少ない気がするのはなぜだろう?
「科学的リテラシー」があると自信のある人は、自分と違う意見の人、間違った(と思う)考え方の人を見ると、その人の不安や気持ちに寄り添おうとするのではなく、「科学を知らない無知ぶりをせせら笑える格好のカモが来た」と喜んで、ケチョンケチョンに論破するタイプが少なくないように思う。
理知的かもしれないけど、人の気持ちに寄り添わない冷たさを感じられても仕方ないケースが「科学的リテラシーがあると自認する人」にはやや多めな気がする。これは残念なことのように思う。
かたや、デマを流布する、と批判される人たちは。
不安な気持ちを否定せず、寄り添い、話をよく聞き、共感する。だから「ああ、この人はいい人だ!私に寄り添ってくれる!信頼できる!」と感じる。そんな人のことを知りたくなる。そしてその人の考え方は信じたくなる。信じることで相手と一体感が得られ、ますます嬉しくなるから。
私は、人間は論理や科学で動くのではなく、「心理(こころのことわり、法則)」で動くと考えている。私たちが信じるのは、自分の弱さ、本音、不安もひっくるめて受けとめ、寄り添ってくれる人。そうした心の法則に従った方が信頼を勝ち得るのは当然。
しかし「科学的リテラシーがあると自負する人」はしばしば、科学的知識の豊富さでマウントを取ろうとする。俺の方が知識は上だ!俺の素晴らしい知識にひれ伏すがいい、と。しかしこうした抜き身の刀のような知識をひけらかされた方は、だいたい白けて、嫌悪感が先に立つ。「心理」に従ってない。
実は、「科学的リテラシーがあると自負する人」も、同様の「心理」が働いてると感じている。少々人格にトゲがあっても科学の知識でほめられ、認められ、人とつながってきた体験があるから、科学こそ人とつながるツールとして、その人にとっては働いてる。だから科学を信じてる面がある。
何を信じるかは、「人とつながる接着剤」が何かで結構決まるように思う。「科学的リテラシーがあると自負する人」は、科学の知識が接着剤となって人とつながれるから、科学を信じる。他方、自分の不安を受けとめてくれ、寄り添ってくれた人がたまたまデマを信じてたら、デマが接着剤になる。
ならば私は、「科学的リテラシーがあると自負する人」が、科学的知識をひけらかしてマウントとる乱暴な振る舞いを止め、相手の不安を否定せずに受けとめ、相手の気持ちに寄り添えば、心の法則どおり、信頼を勝ち得るように思う。しかも科学という援軍もあるから、本来有利。
「科学的リテラシーがあると自負する人」の側の傲慢さが、科学的知識を、信頼を結ぶ接着剤として働かせず、むしろ相手の心をズタズタに引き裂く刃として機能させてしまっているように思う。
アメリカでトランプ氏が大統領になったのも、知識層のこの傲慢な態度が原因な気がする。
「科学的リテラシーのない人はこれだから」と肩をすくめてオー、ノーみたいな素振りをする知識人の傲慢さこそが、デマを生み、それがはびこる原因のような気がする。不安を否定せず、気持ちについて寄り添うという、信頼を得るための「心の法則」を軽視してる点で、科学的リテラシーがないとも言える。
デマを信じてる人に考えを変えさせる方法があるとすれば、それは新興宗教の洗脳を解くのに似た過程になると思う。科学的知識をひけらかすのは、先に述べたように心を引き裂く剣にしかならないからムダ。不安を受けとめ、気持ちに寄り添うという「心の法則」にのっとる必要がある。
科学的リテラシーのある人が、心の法則まで理解し、人に接することができたら鬼に金棒。そうした人が増えることを願う。いくら科学的知識があるからといって、人を小馬鹿にする行為は、見ていてつらい。