京都大学熊野寮の研究を

(京都大学熊野寮での講演を終えて)

お世話になりました!学生だけで寮が運営されてるとは存じませんでした。完全自治!こんな体験を若者の間にできる場所は日本では稀だと思います。個に分断されがちな日本社会で、これは本当に貴重。この貴重性を、うまく発信していけるといいですね。

寮生は450人ほどいて、光熱費込みで5000円弱という安さ。経済的に苦しい若者達にとってとてもありがたい場所になっているらしい。
個室はゼロで、2〜6人が同室で暮らす。食堂があり、格安で朝昼晩食べられる。建物ごとにブロックに分かれ、それぞれの学生が意見を出し合って方針を決めているらしい。

こんな学生の例も。親が高収入のため奨学金が受けられない、しかし親は学費も何も一切送金してくれないため、学費も生活費も自弁しなければならず。そういう学生にとって、アルバイトさえすれば生活でき、学生生活も送れるという場所になっているらしい。

最近は大学側も、学生が個室で暮らせる寮を整備しつつあるらしい。シャワーもトイレも台所も個室ごとに。しかしそうした寮はある程度高くなる。それに、「隣は何をする人ぞ」になってしまう。学生は「個」に分断され、横のつながりをつくる訓練をする機会を失ってしまう。

一つ、興味深い農業研究を思い出した。最新型の農業用水設備を導入した地域と、従来の農業用水管理を続けている地域。最新式では、自動的に各自の田んぼに水を送ってくれて、それまで水利権でケンカばかりしてたのに、これでもめずに済むようになったと喜んでた。ところが。

10年後、自動化した地域では水利施設が機能しなくなってしまった。自動で管理してくれるため、誰も管理しようとしなくなり、そうこうするうちに不具合が重なって動かなくなってしまったという。他方、昔ながらの方法で水路を管理していた地域では、ケンカしながら水路をきっちり管理できていたという。

水路が自動化されたことで、地域に共通の関心事が失われてしまったのだろう。このため、地域の連携も失われ、水路を維持しようという「能動性」も失われてしまったのだろう。

他方、昔ながらの管理を続けている地域は、「自分たちが管理しなければ草ボーボー」と思うので、能動的に管理せざるを得ない。一人ではとても無理だから、集落の人たちで話し合い、互いに協力して管理せざるを得ない。共通の利害が人々をつなぎとめ、水路の維持も可能にしたのだろう。

熊野寮では、入寮希望者は基本全員受け入れることにしているらしい。そのためにみんな相部屋。部屋をぶち抜いて6人住めるようにしたり。安い寮費で生活できるようにという「共通の利害」のために、みんなで協議し、どうやったら実現できるかを話し合っているらしい。

これは、今の日本の社会において、極めて貴重な体験となるように思う。
https://note.com/shinshinohara/n/n81c036c9cc70?sub_rt=share_b
でも指摘したように、今の子どもたちは「群れ遊び」の経験に乏しく、人に揉まれることに慣れていない。これは「国力」にも通じる重大な問題。

社会は、大なり小なり他者とのつながりによって運営されている。しかし他者とどうつながれはよいのか、そのつながり方も分からず、経験もないのではやりようがなくなってしまう。国の外交なんかは他者との丁々発止も必要なはず。それは若いうちに「群れ遊び」の体験をしておくにしくはない。

熊野寮は、掃除から郵便物の整理から、集団生活に必要なすべてを寮生で話し合い、決めているという。自分たちでルールを決め、納得してそれを守るというのも興味深い。今どき、自分たちでルールを決められるという体験をどこで積むことができるだろうか?みんな大人がお膳立てしてしまうのに。

惜しむらくは、熊野寮と外の世界との接点で、公安と機動隊との衝突というド派手なぶつかり合いが目立つこと。これで熊野寮は「学生運動の巣窟」イメージになっている。正直、私もそんな印象があって、今回呼ばれるまで入る気がしなかったのは事実。しかし、熊野寮で学生らに食事を提供してる方が、

「そんな若者じゃないんです」と言って、私が講演するきっかけを作ってくださった。そのお人柄につられて、私も行ってみようと思った次第。そしたら「思ったよりオモロイ場だし、何より日本にこんな貴重な空間があったのか!」と驚いた。個々で生活した体験は、非常に貴重な体験になる。

私は今後も、こうした寮を増やしていったほうがよいように思う。今時は学生寮も個室が多いらしいけど、ワイワイガチャガチャ集団で揉み合い、相談しながら物事を決していくという体験は、社会人になっても役に立つ。今の子どもたちに体験しづらい環境が、こうした自治で成り立つ寮生活にはある。

さて、なぜ熊野寮は公安や機動隊から目をつけられるかというと、実は私が30年前から持っている仮説として、2つ感じている。

・ヒマだから。
・自分たちの雇用が守られるには「敵」の存在が必要だから。

つまり、熊野寮が公安や機動隊の雇用を守っているのではないか説。

正直、学生運動やってるのを私も当時見ていたけど、いい大人が目くじら立てるほどのことか?と思っていた。物々しい格好をして対峙するにはあまりにアホらしい。まあ、こう言っちゃなんだが、私の学生の頃の学生運動は子どもっぽかった。いいおとながマトモに取り上げる価値ないだろ、と思ってた。

まあでも、公安と機動隊ににらまれるというイベントが、熊野寮と外界との接触面で目立つというのは、いろいろと不幸。だって、若者が自治できる、自分でルールを決めて生活する泥臭いことを体験するなんて、今時本当に貴重だよ?それを公安と機動隊の雇用を守るために敵視するっておかしくない?

いっぺん、たとえば京都市の市長を招いて飲み会するとか、議員を呼んで飲み会するとか、いっそ直接的に、機動隊や公安の人たちが午後5時過ぎたら、寮で飲み会しながらディスカッションしたらいいんじゃない?関係性変えようよ。角突き合うの、おかしいよ。

学生も、大学運営側を「当局」と呼んでる人がいるけど、その呼び方は「お前は敵」認定してる響きがある。人間は言葉の論理以上に、その言葉に何の裏メッセージを込めたかが伝わる。運営側と何かと揉めるのは、相手をどう呼ぶかによってすでに決してる面がある。これは改めたほうがよいかも。

大学の運営に関わる人たちも呼んで、飲み会するといいと思う。もし自分たちだけでうまくできそうにないなら、第三者に仲立ちしてもらうといい。今回、熊野寮ってオモロイなあ!と思う大人が増えたと思う。そういう人たちをうまく巻き込んで、違う関係性を形成する試みを始めてみてほしい。

ケネス・ガーゲン「関係からはじまる」という本に、面白いエピソードが掲載されている。アメリカでは中絶問題が世論を真っ二つに分けている。賛成派、反対派が議論しても全くかみ合わない。互いに自分の主張は正しい、相手が間違ってると罵り合いに。
そこで話す内容を変えてみたという。

なぜ自分は中絶に賛成するようになったのか、あるいは反対するのか、それぞれの個人的な体験を話すようにしてみたという。すると、「自分の妹にこんな悲しい出来事があって」など、身につまされる話が続出。自分と立場が違っても、相手がその意見に至った事情は互いによく理解できたという。

揉めるときって、「建前」が前面に出ていることが多い。しかし個人的な物語(ナラティブ)を語り合うと、なぜその人がそう行動するのか理解でき、互いに受容できるようになることも多い。人間なんだから、建前置いといて、人間として向き合うとよいように思う。

ここは大人も「大度」を示してほしいところ。最近の大人、狭ちっこいねん。んな細かいこと目くじら立てなさんなや、という器量の狭さを感じることが多い。でも、いざ人間として向き合ったら、「これもオモロイわな」と思えるようになるものだと思う。京都はそれができる土地柄だと思う。

熊野寮を、次世代の日本を再形成する上での核とすることは、結構面白い事業になるんじゃないかと思う。自治をもう何十年も続けられてるという点も面白い。リーダーらしいものがいないのに文化が維持されるという現象も非常に興味深い。

大阪の大空小学校や、東京の麹町中学校は、校長先生がリーダーシップを発揮し、子どもたちが生き生きと過ごす学校として全国的に注目を集めたけど、校長先生が交代したとたん、ありふれた学校に。リーダーが代わったとたん、文化が途絶えるという残念な事例が数多い。

しかし、熊野寮はリーダーらしいリーダーがおらず、しかも学生が数年で入れ替わるという、文化が維持されにくいはずの空間で自治の文化が維持されているという点が、非常に興味深い。組織運営の研究対象として、大変面白いと思う。なぜそれができるのか、どうやったら他に移植できるのか?

その条件を明らかにできれば、組織運営という面で大変な発見ができるように思う。ただ熊野寮だけを特殊視するのではもったいない。どこも、リーダーがいなくなった途端に文化を失う組織ばっかりなのだから。

ナイチンゲール「看護覚え書」は、「自分がいなくても、いるときと同じように処置が行われないならそれはマネジメントができていない。自分を拡張できなければならない」と指摘している。そういえば看護師は、申し送りをして次の担当の看護師も同様のケアができるようにしている。

看護師は、リーダーが誰になろうと、できる限り同じ質のケアができるような職業になっている。ということは、いろんな場面でそれはできるはず。なのに教育の世界では、素晴らしい教育が施されてる文化を維持できないという皮肉な現象が起きている。人を教えてるのに!

優れたリーダーがいなくても文化が維持される、その秘訣は何なのだろう?それを言語化できたら、教育の世界を変え、ひいては日本を変え、世界を変えることができるのではないだろうか。
熊野寮は、自らの文化がなぜ再生産できるのか、ぜひ言語化してほしい。それはきっと外部の世界に貢献する。

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