私ってリベラル?
友人から「篠原さん、(リベラル代表として)手を挙げたら?」と、この動画を送ってきた。
https://youtu.be/VTG4_sQ-QvM?si=6DmKwYt1IFO1C2Mh
え?私、リベラルなん?というか、私は自分をリベラルとか保守とか右とか左とか規定するつもりがない。私は私。レッテルに従った言動をするつもりがない。私は私の好きなようにする。
正直、ひろゆき氏の動画は一つも見通したことがない。一つだけ、別の知人が「食料安全保障について発言してるよ」と送ってきた動画があって途中まで見たけど、「ああ、食糧危機が来るわけないなんて、ひろゆき氏みたいな発信力ある人まで信じ込んでるなら、ちと危ういな」と思ったのも、
拙著「そのとき、日本は何人養える?」を書いたきっかけの一つでもある。でも、「ひろゆき氏と対談してみたら?」と言われても、とてもその気になれなかった。ネット記事から漏れ聞くウワサだけでも「論破王」とされていて、頭の回転の遅い私では言葉でとても太刀打ちできる人とは思えなかったから。
ただ、動画を見ない私が珍しく動画を見始めたのは、斎藤幸平氏だったから。拙著の帯を書いてくださったご縁もあるし、インフルエンザで頓挫したけど、長野で対談する話まであったので、ご縁を勝手に感じていたから。
そしたら、案に相違して、とても建設的な対談だった。ひろゆき氏の新たな面を発見。
これは一つには、ひろゆき氏が斎藤氏をリスペクトする気持ちがあったからだろう。またリスペクトする理由の一つに、斎藤氏がイデオロギーにコチコチではなく、自らの滑稽さも笑える洒脱さの持ち主でもあるからだろう。こういう対談ができる左側の人って、確かに見ないなあ。みんなコチコチ。
じゃあひろゆき氏と対談する気になるかというと、ムリかな。ひろゆき氏からみたら私なんか吹けば飛ぶような人間に見えるだろうし、まずリスペクトが得られない。それではいいように料理してやろう、と具材としてしか扱われないリスクを感じる。やはり対談には一定のリスペクトが大切だと思う。
人間というのは、相手からリスペクトを受けてるか、あるいは軽んじられているかにとても敏感にできていて、それによってこちらの態度や言動も変わってくる。そうした生き物なのだと思う。人をナメてかかる人に身構えるのは、本能的なものだから仕方ないと思う。
そういう意味で、「そこまで言って委員会」にゲスト出演した湯浅誠氏は大したものだと思う。パネラーはみんな手ぐすね引いて湯浅氏を追い詰めようとしていた。ほめて持ち上げた上で油断させ、そこから追及するという狡猾な手も駆使。普通ならそれに翻弄され、反論せずにいられなくなり、激高する。
ところが湯浅氏はその手に全く乗らず、「はあ、ありがとうございます」「はあ、すみません」と、ノラリクラリ。委員会のメンバーの十八番である、人を激高させ、「キモの小さい奴だ」と戯画化するいつもの手が通じなかった。糠に釘、のれんに腕押し。湯浅氏ならひろゆき氏にも対せるだろう。
ただ、議論として建設的になるかどうかは別。ひろゆき氏はどうも、表面上の論理のほころびを見つけて糾弾するという手法が多いようで、早い話、重箱の隅をつつくのが上手かったりする。それが痛い隅だったりするから、相手は平静でいられなくなる。湯浅氏なら「はあ、すんません」で済ますだろうけど。
議論は深まらないだろう。
斎藤氏との議論が珍しく建設的になったのは、斎藤氏が既にこれまでの議論の中で、そうしたあげつらいの攻撃も受け止め、答えてきた実績があることを知っていたから、突ける重箱の隅がないことも大きいのだろう。
ひろゆき氏に料理されやすい人物は、自分の弱さを認められない人間。強いフリをする人間。そうした人間には容赦しない面がある。ところがリベラルや左翼の人は、立派で強く完璧な人格を演じようとする人が多い。こんな餌食にしやすい存在はない。
リベラルや左翼が弱いのは、弱点を、痛いところを一つでも突かれたらあっさり崩れるところ。
中坊公平氏は活躍当時、総理大臣になってほしい人ナンバーワンだったが、不良債権処理の一部でまずいやり方があったのを機に完全に社会から姿を消した。
リベラルや左翼は、いささかでも汚点があることを許さない完璧な潔癖性がある。このため、少しでも汚点が見つかるとリーダーとしての資格を失う。仕方ないから潔く身を引くしかなかなる。リベラルや左翼の運動が盛り上がらない大きな要因。完璧な人間を演じるという無茶を要求する。
そんな人間おるかいな。屁もこけば出しもする人間。腹が立てば怒るし、欲もあるし、失敗もするし、サボりたいし、ズルもしたい。それが人間やん。リベラルや左翼はリーダーになると人間でなくならんとアカンところがアカン。神様しかリーダーになれんところがおかしい。
その意味では、私はやはりリベラルではないし、左翼でもない。さりとて、今のままでよいという右翼もイヤ。だって、人間って同じやと飽きるやん。良くも悪くも、人間は新しくて面白いことに出会い続けたい生き物。それがなくなると飽きる。面白くない。だから旧態依然とした保守はイヤ。
私は、昔からあるいいところはどんどん活かしつつ、おかしくなったところを改めることには躊躇しない改善主義でいきたい。基本的なOSがアカンようになっていたら、大胆な改修もいとわない。でも、それは過去の否定ではなく、過去に敬意を抱いたうえで踏み台にさせていただくということ。
だから、私の中にはリベラル要素も左翼要素も保守要素も右翼要素もあるが、従来の分類に従う気が起きない。私は私。なんで外側のレッテルに合わせるひつようがあるねん、と疑問に思うタイプ。だから、私がリベラル代表なんて言ったら、後ろから攻撃されると思う。「お前がリベラル名乗んな!」って。