A.S.ニイル「問題の子ども」抜粋

ヨーロッパにおいて(中略)人は生まれながらにして罪びとである、だから教養によってこれをよくしていかなければならないという考えである。(中略)そしてその結果は、両者ともまったく同じこと、子どもを不幸にし、神経症にするだけのことである。
A.S.ニイル「問題の子供」p.20

子どもに恐怖を導入することによって、子どもを向上させようとするのである。 「神を恐るるは知恵の始めなり」とは彼らの信条である。しかしこれがしばしば子どもを神経症にし、子どもに罪を犯させるもとになることがはなはだ少なくないのである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.22

骨折って子どもを悪くしてしまったような親は、たいていは自分の道徳的信念が悪いなどとは考えない。「私たちは子どものために最善をつくした」といつも言う。その結果として、子どもがいつでも悪いということになる。 子どもがわざと悪いことをしているのだということになる。
p.22

彼の意志、すなわち彼の無意識的の衝動、それは生きようとする力である。彼は自分の生きる力によってつき進められ、食事をとり、身体を検し、欲望の満足をはかる。彼は神の意志に従っているのである。しかるにおとなは子どもに見るこのような神の意志を悪魔の意志であると見ている。
p.26

子どもの意志を尊重することなく、自分らのきめたいかに生くべきかの道を子どもに教え始める。そしてああしてはいけない、こうしてはいけない、という禁止ばかりの組織の中に子どもを追い込んでしまう。そしてそこから少しでもぬけ出そうとすると、悪い子どもだ、しようがない子どもだ、わがままでいけない、というのである。かくして子ども自身の持つ本来の神の声が、親たちによって作られた教育の声に出会うのである。キリスト教ではこの子ども自身の最初の声、自然の声を悪魔の声であるというのである。そしてこれに加える教育の声を神の声であるとしている。しかしこれはまったく反対であると私は確信する。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.26

そのりんごの半分を弟にわけさせようとする結果は、その子が弟を憎むようになるばかりである。 愛他主義は後からはいってくる。 利己的なるなかれという風に教育せられるのでなかったならば、愛他主義は自然に
生まれてくるものである。しかし利己を禁ずる教育をされていたならば、愛他的な心はおそらくは出てこないであろう。愛他は利己の進化したものである。愛他主義者は他人をよろこばして、それによって自己の満足をはかるのである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.27

これらの悪をなす人々は、すべて不幸な人々である。 反社会的になることは決して人間の本性ではない。普通の人間なら利己主義であることが、その人を社会的ならしめるのである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.28

最もいやな子どもだと考えるのは、たいていは最も自分に似た子どもである。われわれは自分自身の欠点であると思うところのものを他人の上に見るときこれをきらうのである。われわれは自己憎悪を持つところから、子どもに向かってお説教をし、禁止を命じ、なぐったり、張り倒したりするのである。
p.33

「私はこの世において完全に到達することができなかった。おそらくは次の世において、われわれは完全に達することができるであろう」こういう思想はたしかに利己主義の一変形であると私は思う。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.33

理想主義は(中略)この世に最大の不幸を持ち来たしたものである。不道徳を作ったものは理想主義である。子どもを無邪気に成長せしめることを拒んだのも理想主義である。理想主義は、あたかも温室に花を育てるように、無理にある方向に人をひっぱっていこうとするものである。
p.34

子どもらの中には、もう性に関することなどのわかる年頃のものが大分いた。だからこのお説教は、単に子どもらの罪悪感を強めたに過ぎない。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.34

いかにもキリスト教は悪い。しかしキリストはよかった。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.35

キリストは言った、生きよ、そして幸福なれと。パウロは言った、道徳的なれ、しからば幸福ならんと。キリストは言った、幸福なれ、しからば汝はよき人となるであろうと。パウロは言った、よき人となれ、しからば汝は幸福ならんと。パウロは尊敬せられ、キリストは忘れられた。キリスト教はまったくパウロ教になってしまった。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.35

パウロはキリストが「幼な児をわれに来たらしめよ、彼らをしりぞくるなかれ」と言っている考えにまったく反対している。パウロは子どもらがキリストのところに行くのを禁じた。そして彼ら喜びの何一つない寂しい禁止の国に導いた。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.35

ニイルという人は大した人物だなあ。戦前の、キリスト教がまだまだ力を持つ西欧世界で、パウロとキリスト教にケンカ売るとは!そして「原罪」に疑問を呈するとは!でも確かに、キリストが原罪を説いたという話は覚えがない。

私の性に対する態度は、幼いときにスコットランドの村で与えられたカルピン宗風の無意識にきびしいものを身につけていることを、何としてもみとめざるを得ない。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.38

「もし肉に従い仕えなば死ぬべし、もし霊によりて体の働きを滅さば生くべし」(ロマ書八章)
パウロのこの言葉が、人々を不器用にし、心を病ませる原因になったのだとしたら、皮肉なものだなあ。
ニイルはこの点に踏み込んでいるところがすごい。

p.40あたり参照。

フロイトの反対者が、フロイトはすべてのものに性を見ると言っているが、事実はまったくその通りである。正直に物を観察するならば、誰でもすべてのものに性を見るにちがいない。道徳教育なるものがすべての物を性的にしてしまったのである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.42

「子どもはどこから生まれ出たものかということを教えたかどうか、それをうかがうのです」と私は言った。すると、
「ニイル先生、私は子どもに対しては、きたない話は決してきかせたことはありません」とこう言うのである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.48

心理学者によれば、自慰は自己愛の結果であるとし、自慰と名づけられている。しかし私は自慰はむしろ自己憎悪の結果に近いように思う。自慰は常に罪悪感を伴う。子どもがこれを告白することを非常にいやがるのもこのためである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.50

私には自慰が生理的に害をなすものとは信じられない。子どもをそこなうものはむしろ自慰の罪悪感である。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.50

子どもに道徳的態度をとらせることは、彼の苦悩を地下に追い込むことである。子どもはともかく一時は病気になることを恐れ、救いの希望を抱いて自分を制するであろう。しかし遅かれ早かれ人間の自然性はあらわれ来たっ本来の進路を示し、かくして子どもは「堕落する」のである。かわいそうに幾千の少年少女らは戦っては破れ、戦っては破れ、彼らの尊い若い生命を台なしにしてしまうのである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.52

私は言う。このことに関しては、われわれはどこまでも正直でいよう。猫かぶり偽善というようなことはいっさいやめて、事実そのものに相対してゆこう。危険な禁止 Verbot をやめよう。 この世界はもっと住みよい場所になるはずだ。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.52

子どもは悔い改めることよりは、自慰をする方がはるかに神に近い。かく記すことが決して神を冒瀆するものでないことを私は信ずる。悔い改めの心を打破してしまえば、事実自慰の病的強迫性をも打破してしまうことができるのである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.53

最初に禁止を命じたのは父親である。だから父親がこの禁止を解除しなければだめである。そう思って私は父親に話してそうさせた。その結果間もなく夜尿症はなおった。(中略)しかしもっと重大なことは、夜尿症がなおると同時に、今までぼんやりしていて学問に対する才能もなく、注意を集中することもできなかった子どもが、急にはればれした顔になり、事物に対して興味を起してきたことである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p53

この子どもの生活における唯一の興味は便所であった。(中略)私はそこですぐに地理の授業をやめて便所の話に転じた。彼女は大へんに喜んだ。それから十日ほどたって便所のことについて言い出してみた。「私もう便所のことはききたくないわ」と彼女はうるさそうに言った。
p.54

清潔ということに対して早くからしつけてゆくことが、かえって糞便に対する興味を誘発するのである。現在私のところにいるひとりの男の子は、糞尿およびこれに類似のものにのみ興味を持っていて、そのために学科に対して少しも興味を持たない。→

糞尿に対する興味の消し去ったときだけが、彼の数学に進み得るときである。教師の仕事は簡単である。 教師は子どもの興味がどこに存するかを見、子どもがその興味にたんのうするまで助けてやることである
A.S.ニイル「問題の子ども」p.55

「しかし宗教、道徳をぬきにして育てた子どもは、自分を制することができないでしょう」
「奥さん、どうも私はあなたのご意見には同意しかねます。 それはあなた が『生まれながらの罪』というものを信じてらっしゃるからです。」
A.S.ニイル「問題の子ども」p.58

初めてきたときには子どもらはほんとうのことを告げるのを恐れてしばしばうそをつきます。しかしこの学校が警察官のな学校であると知ったとき、子どもらはもううそを言う必要のないということがわかってきます。規則というものが罪を作るのです。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.58

子どもに無理にやらせようとする考えはすべてまちがっている。子どもは小さなおとなではない。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.63

心理学が無意識の重要なことを発見したのはごく近頃のことで、それより以前においては、子どもは理性的なものと考えられ、善にも悪にもなり得る意志の力を持っているものと考えられていた。子どもの心は白紙のままの状態であって、教師はそのうえに彼の生活の線を書くべきものであるとされていた
p.67

ここに問題になるのは、単に身体的な事柄で終るべきことが、道徳的な事柄になってくることである。だから糞便に対して特別な興味を持つ子どもに向かって、それをきたならしいことであると教えるのはまちがっている。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.68

父親が大きい声で、「やかましい!その騒ぎやめろ」というのは、堪忍袋の緒がきれたという打ち開かれた表情である。しかるに母親が「なんです、だらしがない」というのはいかにも鋭い道徳的なことばである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.69

しかし私の信するところでは、アルフレッド・アドAlfred Adler の力の理論は、あまりに、軽視されていはせぬかと思う。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.71

窓こわしの徒党の親王であるような反社会的な子どもが、自由の境地におかれたとき、規律、秩序を大いに維持しようとする人間になることを、私は常に見ている。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.76

この子は前にいた学校では規則を守らない仲間の隊長であった(中略)ところがここでは勝手がちがっていた。私の学校には規則というものがない。規則に向かって反抗しようにも規則がないのだから仕方がない。アンシはまるで水から上がった魚みたいだった。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.77

愛と憎とは反対ではない。愛の反対は無関心である。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.78

彼女は父を憎み父を恐れた。彼女は父の膝に乗ることを許されなかった。彼女の父に対する愛は憎しみに変っていった。ところが彼女はここに来て新しい父親を見出した。その人は決し自分を叱らなかった。その人は決して恐ろしい人でなかった。彼女の憎しみは消えた。その翌日から彼女が私に対して非常に優しくおだやかになったのを見ても、彼女の憎しみが愛の変形であったことは明らかである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.78

いずれにしても子どもには心理学なぞ教えるべきではない。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.84

子どもは石をなげ凧をあげていればいいのだ。教師や医師のなすべきことは、子どもが凧をあげようとしてもあげられないで困っているときに、その邪魔を除去してやることである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.84

この神秘的な器官に対して、母親や乳母が非常に注意深く監視するので、子どもはこれを重大視するようになる。しかもその重大視する仕方が大げさ過ぎているのである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.91

お子さんは空想の世界にひたっています。 この空想の世界を打ちこわすには、私にはどうしても一年はかかります。 いまお子さんに本を読めというのは、お子さんに対して罪を犯すことです。お子さんが空想の世界に対する興味から脱し得るまでは、本を読むなどいう興味は露ほども知りますまい
p.97

しかも今日の学校の教室は、この刑務所制度に似ていないといわれるか。 一日六時間子どもを腰掛にかけさせ、貼っていさせることは、彼らの第一の権利、自己表現というものを奪うことではないか。ただその中のいわゆる利口な者どもーー学校で優等賞をもらって、のちに鉄道の赤帽になるような者どもだけが、自分のできることを見せびらかすにすぎない。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.98

私は十四才になった娘に対して、安心して火をたかせ得ない親を知っている。これでは親たちは最善の力をつくして、子どもに責任感を持たせまいとしているようなものである。
「雨合羽を着ていらっしゃい。雨が降り出しますよ」
「ねえ、鉄道の近くに行くんじゃないよ」
「おまえもう顔を洗ったかい?」
こういうのは皆そうである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.99

子どもには十分責任を持たしてなんでもやらせていい。モンテッソリの子どもたちは熱いスーいっぱいに入れた鉢を自分たちで運ぶ。七つになる子ども、それは私の学校で一番小さい子どもだが、ノミでも、ノコギリでも、オノでも、小刀でも、どんな道具でも自由に使っている。
p.99

「さわっちゃいけない!」と言って子どもを叱るのは、子どもより品物を大事にする立派な証拠である。子どもがうるさいというのは、親の利己的な意欲が子どもの意欲と衝突するからである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.101

トミーに機関車の巻き方を教えてやることは、発見とか征服とかいうような生活の喜びを子どもから奪ってしまうことである。さらに悪いことは、子どもに自分は劣っていると思い込ませてしまうことである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.104

私は学生時代に喜劇俳優とよく友達になったが、その友達になり方はまことに簡単であった。なんでも他の役割の俳優をだめだと言いさえすれば、いつでも友達になることができた。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.105

教師はしばしば親たちの嫉妬に対抗する。 子どもが学校を愛し、私を愛するために、両親が嫉妬を起し、そのために子どもを退学させてしまった例も一再にとどまらない。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.111

私はときどき考えることだが、きびしい学校は休暇に子どもが喜んで家に帰っていくために評判がよい。親たちは子どもらが家に帰って幸福そうにしているのを喜んでいるが、実はそのとき多くは子どもが学校をきらっているのである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.112

教師を愛する子どもなどありはしない。 先生というものは単に父親や母親の代りである。だから親に対する愛が先生の上に降りかかってくるに過ぎない。
A.S,ニイル「問題の子ども」p.112

私はよいお行儀とかていねいなことばとかを要求したことはない。 私は顔を洗ったかどうかを尋ねたこともない。 従順、尊敬、名誉等についでも私は何も要求しない。約言すれば私は子どもに対し、おとなに対すると同様の尊敬をもって接しているのである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.112

われわれおとなは教育とはなんであるかを知らないということを、大胆に告白すべきである。そして事実またわれわれは、子どもにどうしてやるのが最もよいか知らない。なぜならばわれわれは、子どもがどこに向かって行きつつあるかをまったく知らないからである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.114

ただ大事なのは、子どもである。 新しい時代を代表する子どもである。シュタイナーは子どもがどこに行くべきかを示すであろう。しかし私はシュタイナーといえど子どもがどこに行きつつあるかは全然知るまいと思う。両親ももちろん知らない。→

だからおとな自身の頭で作り上げた思想と価値とをそのまま子どものうえにおこうとするのは永遠の偽瞞であって子どもに対する大きな罪悪である。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.115

怠惰ということは存在しない。いわゆる怠惰というのは、つまり興味を欠くことか健康を欠くことである。私はいまだかつて怠惰な子どもというものを見たことがない。健康な子どもは怠惰であるはずがない。子どもは一日中、何かしらしている。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.117

しかし私は健康な子どもであっても怠け者だといわれている者を知っている。学校の職員会で数学の教師が子どもの成績の進歩を報告するにあたって、そういうことを指摘するのを知っている。この場合、子どもにとっては数学は興味がないのである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.117

しかし学校の規則によって、これを学ばねばならない。そこでいやいやながらやる。それが怠惰の形になってあらわれるのである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.117

十三才の女児ウイニフレッド、この子どもは私が学校をドイツにおいて経営していたとき、学科本位の学校からきた子どもであった。この子どもはすべての学科をきらっていたので、私が「この学校に来た以上は、もうなんでも自分の好きなことをしていいのだ」と言ったところ、喜びのために大きな叫び声をあげた。私はさらにまた、
「もしいやだったら授業にでてこなくてもいいんだよ」とつけ加えた。
子どもはそれからまったく好きなことをしていた。そして数週間は過ぎた。そのとき私はこの子どもが退屈しているのをみとめた。
「何か教えてちょうだい。私、もうすっかり退屈してしまったわ」と彼女は私に言った。
「そりゃいい!」私も喜んで言った。 「しかし何を習いたいの?」「そりゃぼくにもわからないな」と私は言った。 私は彼女のそばを離れた。
幾月か過ぎた。すると彼女は再び私のところへ来た。
「私はロンドン大学の入学試験を受けようと思うんです。 ですから私に学科を教えてください」
それからというものこの少女は、毎日私についてか、または他の先生について、熱心に勉強し出した。

少女の告白するところによれば、学科はあまりおもしろくない。けれども試験を受ける目的のためにやる、というのであった。こうしてウイニフレッドは自分自身のために勉強するようになったのである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.118

私たちはこの子どもの来たてのころのことを、よく笑って話したものである。トムはいつもきまって私のへやの扉をあけて、
「だけど、ぼく何をすればいいの?」
ときいたものだ。しかし誰も何をしなさいということは言わなかった。六ヶ月ののちには、(中略)トムはいつも寝台の上に大きな紙をひろげていた。彼は地図を作るといって、何時間も何時間もそれにかかっていた。
ある日ウィーン大学の教授(中略)はトムに向かっていろいろの質問をして(中略)「(中略)あの子は私の知らない土地のことまで話していましたよ」
p.119

もしわれわれが子どもの精神を健全にしてゆこうとするならば、子どもに善悪正不正についての価値を見てゆかせようとすることに反対してゆねばならぬ。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.131

すべての子どもは自己のうちに神をもっている。子どもを型に入れて作りあげようとすることは神を悪魔に変ぜしめることである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.131

私の学校に来る子どもたちはいずれも小さな悪魔で世の中を憎み、破壊的で、無作法で、うそつきで、手くせが悪く、乱暴である。しかし六月ののちにはみんな悪気のない幸福な健康な子どもになっている。しかも私は何も子どもをよくすることの天才ではない。私はただ子どもの行動を指導することを避けているだけである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.132

彼らは子どもをよくしたいがために、子どもを罰しているのだと思っている。「そんなことをするのはおまえ自身を傷つけるものだ。しかしそれを見せられる私の心はなおいっそう傷つけられる」こういうもったいぶったことを言うのは、そう大した虚言ではないもののまったく自己偽瞞に過ぎぬ。
p.138

「いっそのことお父さんが死んでくれたら」と子どもは思う。そしてそうした空想の後に直ちにくるものは、「私はお父さんが死ねばいいと考えたのだ。私はなんという罪な人間であろう」という悔恨である。悔恨の念にかられた子どもはやさしく父の膝による。しかるに処罰は多くの子どもを病的な者にする。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.138

私の講演のとき、古い頭の人はときどき次のような質問を提出する「私の父はよく私をスリッバで打ったものです。しかし私はそれをうらみには思っていません。あのとき打たれなかったら、私は今日あるを得なかっただろうと思います」→

ところで、「そんならあなたは今日どんな人物になっておられますか」とききたいところだが、まさかに臆面もなくそうしたこともきき得ない 。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.139

今日の宗教と道徳が、処罰を以てやや魅惑的なものにしていることは事実である。それは良心希薄にする。「私はもう償いをしたのだ」と考えるからである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.139

私の経験では処罰はまったく不必要なものである。私は決して子どもを罰しない。子どもを罰しようとする気持を起したこともない。近ごろ私は新入生のある男の子に向かって言った。「君はこんないたずらばかりしているが、私が君を打つようにと思ってそんなことをしているのだな。→

君はそんなことまでして、つまらなく暇をつぶしているんだね。でも私は、君がどんなことをしたってなぐりはしないよ」 こう言ったところ、この子どもはとうとう乱暴をやめてしまった。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.140

理解しようとするならば、われわれは叱ることができない。子どもを叱る場合われわれは子どもをよくしようとして叱るよりも、むしろ何かに対して腹が立っている場合のほうが多い。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.140

何が処罰であり、何が処罰でないかを決するのはむずかしい。 二、三週間前、ある男の子に私はカンナを貸した。翌日見ると、それが雨の中にほうり出されてあった。こんなことをするなら、もうこれからは決して貸さないと私は言った。これは処罰ではない。 処罰は善悪道徳の観念をふくむ。カンナを外にほうり出しておくのはカンナのために悪い。しかしそれは道徳的に悪いことは少しもない。道具を借りてそれをだめにするようなら、もう借りられない、ということを了解させるのは、教育上における大事なことの一つである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.141

女ばかりの職員のある学校からきた男の子があるが、この子は物を投げたり殺すぞと言っておどしたり、皆を恐れさせてばかりいた。この子が私とゲームをしようと言い出した。それで間もなくわかったが、この子は自分の気ままを振舞って、皆の怒るのを見ようとしているのであった。
p.141

彼は手にハンマーを振り上げて、近よってきたら誰でも打つぞとおどかしていた。
「おい、それを投げてみろ。 ぼくらは君を恐れはしないよ」と私は強く言った。
彼はハンマーを落して私のところへ飛んできた。そしてかんだりけったりした。
「ぼくはひっかいたりかんだりしたら、そのたんびに打つよ」私はその通りにした。間もなく彼は乱暴をやめて走り去った。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.142

たいていの家で子どもを処罰するのは、子どもが服従しないためであることはたしかである。学校においてもまた、服従しないことと傲慢なことは悪い罪だと見なされている。以前私が怒りっぽい教師であったときには、私はいつも言うことをきかぬ子どもに向かって、最も怒った。私は自分の尊厳が傷つけられたと思った。 家庭において父親が天下様であるように、私は教室における天下様であった。言うことをきかない子どもを罰するのは、全能の神によってなされるにひとしかった。「汝は他のいかなる神をも拝すべからず」である。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.142

承服しがたい疑問が次に起ってくる。なぜ子どもは従わねばならぬか。それはまったく力に対するおとなの欲求を満足させるためにすぎない。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.142

たしかに生命にかかわるような事柄のときは服従しなければならぬ。しかし命にかかわるような事柄のとき、服従しないために処罰されるということはどれほどあるか。それはまことに僅少である。そんなときたいていは抱きしめられて、「まあよかった、神様にお礼を申すんですよ」というようなことを言われる。叱られるのはいつもつまらないことについてである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.143

しかし本来私の学校では権力をもって臨んだり、服従を強いたりするようなことはない。他人の自由を侵害しない限り、誰でも自分の好きなようにしていい。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.143

恐ろしいのは訓戒である。「それでもおまえは自分が悪いことをしたということがわからないのか」 子どもはすすり泣きながらうなずく。「悪かったとあやまりなさい」偽善、着の人をつくる訓練としては、このような訓戒の形式による処罰にまさるものはない。しかしさらに悪いことは、誤った子の魂のために祈ることである。これに至ってはまったく許しがたい。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.144

ある行為に対し賞品を与えることは、結局その行為がそれ自体としてはなすべき価値がないことをみとめさせることである。いかなる芸術家も賞与のために制作することはない。彼の賞与は創作の喜びである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.144

他人を打ち負かしてゆく主義は決して賞讃すべき主義ではない。実際上においては、賞与をやることは心理的に悪い結果を残す。それは嫉妬を生ぜしめる。 兄が弟をきらうというような場合、その原因の多くは、母親が、「弟の方がおまえよりよっぽどよくできるよ」と言ったことに発している。
p.144

われわれは興味を強いることはできない。たとえば私に向かって切手の蒐集に興味を持たせようとしてもそうはいかぬ。私は自分でこれを好きにさせようとしてもできない。しかるに賞罰はこの興味を強いる。むちを持った教師は興味を強いることもできよう。しかしこの場合、子どもはむちに興味を持つのであって、黒板の上に書いた数字に対して興味を起しているのではない。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.145

学校で賞をもらっていた大多数が、のちに平凡な人間になってしまうのは何によるか。これもまったく前と同じで、賞品に興味を持つだけで学科に興味を持っていなかったからである。辻に立っている巡査がこわいばかりに、善良でいるというのでは情ない。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.145

母親が自分の子どもをいつまでも自分に頼らせておきたいと考えるのは自然である。 老齢の両親を楽しませるために、嫁に行かないでいる娘のいる家を私はたくさんに知っている。こういう家は多くの場合幸福ではないことも私は知っている。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.155

街上で母親はしばしば「およしなさい、トミー、おまわりさんがきますよ」と言っているのをきくことがある。この種の取り扱い方の悪いことは、母親がうそつきだということを子どもがじきに知ってしまうことによって明らかである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.157

教師は子どもの自我と張り合うわけにはゆかない。それだから子どもらは私に対しても、その尊厳をみとめて尊敬するなどいうことはなくて、私をばかと言ったり、とんまと言ったすることさえある。一般に子どものこういうことばは親愛の意味である。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.168

子どもの利己主義も、これを発揮せしめることによって、これを除き去ることができるという希望(私の希望)によって、私は子どもにいつも自由に振舞わせている。すると子どもはいつか社会的になってくる。子どもは周囲の意見をきくようになってくる結果、利己主義ではいられなくなるのである。
p.170

子どもはわがままであってもいい。しかしおとなはわがままを事物にとどめ、人に及ぼすべきではない。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.172

子どもにきいてみた。「祈りのことばを言うとき、君は何を考えるか」 こうきいてみると、だれの答も同じようで、いつも他のことを考えているというのであった。だから子どもには祈りは意味をなさない。それは外からの押しつけであったからである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.174

子どもは本来利己主義者である。この事実は否定することができない。子どもはそれ以上にできないものである。子どもは人を愛することができない。子どもはただ愛されんことを求めるのみである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.186

犯罪者は社会に向かって復讐する。なんとなれば社会は彼に向かって愛を示さず、彼の自我を受け入れることをこばんだからである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.187

私が愛していると子どもが感ずるのは、私が子どもの自我を尊重するためである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.189

レーンは不良児に向かって自由を与えた。そして子どもらはそれによって自然によくなっていった。貧民くつにおいて、子どもらが自我の満足をはかる唯一の方法は、反社会的な行動をして、人々の注意を自分に向けさせることだった。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.189

私の友人で不朽の作を発表している小説家があるが、安っぽい探偵小説を非常に喜んで読んでいる。人生におけるすべての物を鑑賞する力、これこそ私の教養と呼ぶところのものである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.198

事実罪を作るものは規則である。自由が子どもをよくするのではない。それは単に子どもがよくなり得る機会を与えるだけである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.204

私は無理に強いることにはいつも不満をおぼえる。何びとといえども無意識を無理に動かすことはできない。強いられたら意識は従うかもしれない。しかし無意識は反抗するであろう。いかなる人といえども脅迫によって心を変えさせることはできない。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.206

私は二十一才のときになって、ラテン語を知らなければ大学にはいれないということを知り、予備試験に通るために一年近くもみっちりラテン語を勉強した。その結果としてエネイドがほんとうに好きになった。自分自身の興味から私はラテン語を学ぶに至ったのである。
p.207

たびたび言うことだが、私はもう一度くり返して言う。何びとといえども他人に向かってかくかく生活すべしと教えることのできるほど偉い人はない。何びとといえども他人の歩みを導き得るほど賢明なものはない。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.206

私の大事な仕事は、静かに座して子どもが悪いと思い込んでいる事柄を、実は決して悪いことでないとみとめてやることである。すなわち、子どもの心のうえに加えられた良心を破壊することである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.219

この子どもは店に行っては物を盗む。私はこの子どもを連れて店に出掛けて行って、この子どもの見ている前で物を盗んで見せることを考えている。(もちろん私は臆病だから、前以て店員と妥協しておいてのことだが――)
A.S.ニイル「問題の子ども」p.220

子どもが神経的になるのは、子どもが心の中に善と悪、神と良心 (道徳教育の声)の葛藤を起す結果である。このような誤った良心を薄弱ならしめることによって、子どもを幸福にし、善良にしつつあることは、常に私見るところである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.220

なぜなら彼らの新しい道徳は、知識の上に築き上げられたもので、善悪の外面的標準からきたものではないからであった。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.221

ことに一つ危険なことはわれわれ自身が救世主コンプレクスを作ってゆく傾向のあることである。魂を救済する人はとかく自分自身を救世主と同じに考えがちだからであるストと同じに考えることによって自ら慰めているのである。
p.227

子どもらにとっては教えることが必要なのではない。愛と理解とが必要なのである。彼らはよき人とならんがために自由を必要とする。よき人とならんがための自由を子どもらに与え得る最も大なる力を持つものは親である。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.229

およそ捨てるということは、この世において最もむずかしいことであるのを私はよく知っている。しかし捨てることによって初めてわれわれは生命と進歩と幸福とを見出し得るのである。問題の子どもを持つ親はまず捨てなければならぬ。権威とか批評とかいう衣をかぶった憎悪をまず捨てなければならぬ。また新しいものに対する恐れからくるところの偏狭さをも捨てなければならぬ。さらにまた、衆愚の道徳と衆の評決とをも捨てなければならぬ。もっと簡単に言えば、親が自分自身に帰ればよいのである。しかしこれはたやすいことではない。人は決して自分自身ではない。自分自身と思うそれは、実は自分の出会ったすべての人々との結合である。
A.Sニイル「問題の子ども」p.230

ある母親は自分の子どもに向かって自慰をすると誰からも憎まれると言った。すると子どもは母親の言った通りになった。子どもは学校での一番のきらわれものになった。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.234

私はかつて、おまえたちは気ちがいになるぞと言われて、気ちがいになろうとする悲壮な努力をしつつあった子どもたちを世話したことがある。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.234

私の仕事として、常に私の努めるところは、親にまちがいをさせないことである。私は子どもに対しての私の力のまことに薄弱なことを知っているからである。
A.S.ニイル「問題の子ども」p.234

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