「驚く」考
私は子育てにおいて「驚く」をオススメしているわけだけど。「わざとらしく驚いてみせても効果がないのでは?」という指摘を頂く。私もそう思う。実は驚いてなんかいないくせにわざとらしく驚いてみせたら、その白々しさを子どもは敏感に見破り、逆効果しか示さない恐れがある。
知人は「驚く、ではなく「差分に気づく」で十分なのでは?」と指摘する。私はこれに同意。で、私も「差分に気づく」という表現をしばらく使っていたのだけど、「驚く」に表現を戻した。「驚く」の方が、厄介なものを取り除く必要がハッキリすると思われたから。
その厄介なものが、期待。親はついつい子どもに期待してしまう。あんなことができたら、こんなことをマスターしたら、と。で、そのためにはこの勉強を、この本を、と、子どもが取り組むのを期待する。期待通りに行動させるために、「ほめる」などのご褒美も用意する。
比較的素直な子はそれでもしばらくはうまくいく。小学生くらいまでは親にほめられると嬉しいから、素直に言うことを聞く面がある。しかし思春期を迎え、親に反発する心理が働くようになると、親の期待通りに動いてきた自分が許せなくなることが多い。そうなると、期待や「ほめる」は逆効果。
私は、子育ては「親がいなくなっても生きていける」をゴールに据える必要があると考えている。親がいない未来でも課題を克服していく力を身につけていてほしい。そのためには、物事に進んで立ち向かう能動性と、工夫して課題を解決する力が必要。それを育むにはどうしたらよいか?
いろいろ観察していると、能動性や工夫の天敵は「期待」であると気がついた。こう動けばよいのに、それはこうすれば上手くいくのに、という「期待」があると、たとえ期待通りの結果が出ても、どこかで「ほら、俺の予想通り」と、自分の見通しの的確さを誇る気持ちが現れる。すると面白いことに。
子どものやる気はゲッソリ失われる。向こう気の強い子ほど、親の思惑通りに動いた自分が許せない。大人しい子は小学生の間はもっても、思春期や大人になった時に混乱する。どうも、親の期待というのは、長期で眺めると子どもの能動性を損ない、工夫する力を奪うらしい。
ではどうしたらよいのか。
私は、赤ちゃんへの親の接し方が理想的だと考えている。相手が赤ちゃんだと、親は何も教えることができない。何しろ言葉が通じない。
親は祈るしかない。元気に育ちますように、言葉を話せるようになりますように、立つことができますように、と。
元気に育つことも、言葉を話すことも、立つことも、期待したってその通りになるとは限らない。だから期待するというより「祈り」に近くなる。
そして赤ちゃんが初めて言葉を話したとき、立ったとき、親は驚く。言葉を話してほしい、立ってほしいと祈っていたけど、本当に立った!と。
こう考えていくと、「期待」はそうなるのが当たり前、さらにその次のステップに進むための一里塚でしかない、という心構え。けど赤ちゃんの成長を願う「祈り」は、もしかしたら叶わないかもしれないという自分の無力感を感じつつ、赤ちゃん自身に力があることを祈るしかない、頼りない気持ちの心構え。
「期待」ではなく「祈り」になった時、親は驚くことになるように思う。起きる結果を当然視しない、自分にできることはあまりにも限られているという無力感を自覚した「祈り」をしているとき、もし祈り通りなことが起きたら驚き、狂喜乱舞することになる。「奇跡が起きた!」と。
思えば、「期待」はおかしなところがある。我が子とはいえ、他人。別人格。やる気を出すかどうか、果たして能動性を発揮するかどうかを他人である自分がどうこうできるはずもない。なのに「自分のおかげでこの子はこれができるようになるのだ」と考えたがる。「期待」とは、操縦欲なのかも。
操縦欲があるから「ここはこうした方がいいよ」「この本を読んだ方がためになるよ」と先回りし、その子がこちらの思う通りに動くことを期待してしまうのかもしれない。しかし先回りは、推理小説の主人公をバラされるようなもの。映画のクライマックスをバラされるようなもの。面白さ激減。
子どもが能動性を示すのは、自分が能動的に働きかけた結果として変化を起こせるからだと思う。工夫が楽しいのは、自分がこの課題を解決できたという快感があるからだと思う。なのに先回りされ、教えられるとすべてがオジャンに。
私は、極力教える部分を減らし、子どもが自分自身の力で解決したいだろう部分を残すことを大切にしたほうがよいように思う。子どもは自分の力でいろいろ工夫を重ね解決する。そのとき、一緒に驚けばよいのだと思う。「よくぞ自分の力でこれを解決した!」と。
子どもが能動的になるかどうかも、親はどうしようもない。何か手助けになればと先回りしたり教えたりすると、それは「親のおかげで解決した」ことになり、自分の力で解決したという快感を奪われることになる。これは能動性を失う大きな原因となる。で、先回りせず、変に全部を教えないようにすると。
果たして子どもは能動的に動くのだろうか、解決できるだけの工夫ができるのだろうか、と、祈るような気持ちになる。だから能動性が生まれただけで驚嘆することになる。たとえ上手く行かなくても、工夫を重ねる能動性が現れた奇跡に驚かされることになる。
我が子のこととはいえ、別人格の自分ではどうしようもない、という腹のくくり方をしていると、子どもの中に能動性が発生することの奇跡に驚かざるを得なくなる。私はそうした心構えに自分を置いている。実際、子どもがどうなるかなんてコントロールできるはずがない、と考えている。祈るのみ。
でも、不思議なもので、自分の無力を知り、子どもの健やかな成長を祈る気持ちでいると、子どもに能動性が生まれる奇跡に驚くようになる。すると子どもは、赤ちゃんの時に立ったり言葉を話したりし始めたときのような、「親を自分の成長で驚かす」という楽しみをもう一度思い出すことになるらしい。
親が自分の無力を自覚し、子どもの成長を祈るようになると、子どもの見せる能動性の一つ一つを奇跡として驚くようになり、子どもはその驚きをエネルギーに変えてますます能動的になる。親が工夫に驚けば、子どもはますます工夫を重ねるようになり、課題を解決するのが上手くなる。
親が自分の力を過信し、自分が導いて揚げればこの子の成長は加速する、と考えると、子どもは能動的に物事を解決するという楽しみを奪われ、次第に能動性を発揮することが疎ましくなり、無気力になっていく。反抗するようにもなったりする。何とも皮肉な現象のように思う。
こうなる原因は、子どもはアマノジャクなことが多いからかもしれない。親の想定の外に出て驚かすのが大好き。なのに親が「そんなくらいすべて想定の範囲」という賢そうな態度をとると、親を驚かすという楽しみが失われ、つまらなくなるらしい。
アマノジャクな子どもは、親の想定の外に出るのが好きなのなら、親は自分の無力さを自覚することで想定を小さくし、あるいはなくし、「祈る」だけにしたほうがよいのかも。すると想定がそもそもないから、子どもは容易に親の想定を超えることになり、驚かすことができるようになる。
だから私は、子どもをどうこうできると考える慢心を捨て、むしろ自分は子どもの気持ちをどうこうする力はない、と諦念を抱いている。そして、子どもの成長、笑顔を祈っている。すると子どもは驚くべき能動性を示すようになる。不思議。でもどうやら、人間というのはそのようにできているらしい。
自分の無力を知り、祈ることしかできないのに、子どもが自ら能動性を示し、工夫を重ねて課題を解決していく奇跡を目の当たりにすると、驚きと同時に感謝の気持ちが湧く。よくぞこんな奇跡が、と。そうした姿勢が子どもの成長に素直に驚く心理に自分を導き、歯車がよい形で動き出すのかもしれない。