日常の不思議を、手持ちの材料と観察だけで考える、教えない
「なんで35℃のお湯はぬるいのに、35℃の気温だと我慢できないくらい暑く感じるんだろう?」と息子(小三)。出た、身近な不思議。でもこれ、考えれば考えるほど不思議。同じ温度のはずなのに、どうして水温はぬるいと感じ、気温は暑いと感じるのか?
たぶん、熱交換ができるかどうかなのだろう、けれど。水だと、肌から熱をどんどん奪ってくれる。けれど空気だと、たまに肌にぶちあたる気体の分子くらいでは熱を奪ってくれない。体から輻射熱で放熱しようにも、体温と1℃差では戻ってくる輻射も強い。熱交換が難しい。
ということはあれか、皮膚の感覚で「温感」というけれど、温度を感じているというより、体の熱がこもっているか、うまく外に逃がすことができているか、が、暑い寒いという感覚なのか。温感は、温度だけを感じるセンサーじゃなくて、体の熱を放散できているかどうかをモニターしているということか。
などということを大人の知識でコッソリ考えつつも、小三の息子と同じ立場で、同じ知識量で、同じ材料でこの問題を考えてみた場合、難しい。同じ温度なのに、水温と気温では感じ方が違う、というのをどう考えればよいのか。そもそも同じ35℃というのは本当に正しいのか?と疑いたくなるくらい。
温度計は自ら熱を出さないから、35℃を示した段階で熱の受け渡しが終了し、水温でも気温でも、35℃なら35℃を指したところで止まるのだろう。しかし人間は発熱体。熱を外に吐き出せるかどうかが暑い寒いを決定するのだろう。
息子の疑問で、意外な発見ができたような気がする。他方、息子のもつ材料で自分が考えようとすると、これまた非常に難しく、答えが出ないことにも驚く。今後、息子がこの疑問に対してどう思考を進めるのか、興味がある。10年後、20年後はどうなのだろう。様子を観察したい。
私たちの身の回りには、まだまだ不思議がたくさんある。考えてみると、すぐに答えが思いつかない、難しい問題が横たえている。なんとかひねり出した答えも、果たして正しいのかどうか。単なる仮説にすぎない。ましてや、子どもと同じ知識量で考えろと言われたら。実に悩ましい。
こんな感じで、日常の身近な不思議に気がついては、一緒に考え、不思議がっている。息子と同じ知識材料で考えるのは、とても知的刺激を受ける。息子が今後、別の知識を仕入れた時に仮説がどう変化するのかも興味深い。息子の発達史を観察するのは、なかなか楽しい。だから教えない。
大人の考えた仮説だって、果たして正しいかどうかわからない。生半可な知識を動員して「それはこういうことだよ」と子どもに自慢しても、それが間違っていたとしたら恥ずかしい。だから教えない。変に間違ったこと教えて思考停止されても困るし。
息子と同じ知識材料で物事考える、というのは、手でボールを触るな、とあえて制限をかけることで面白くなった競技、サッカーに似ている。年の功で知識のある大人が、知識を使って考えるのはずるい。だから、息子と同じ土俵で考え、どんな仮説を紡げるかを考える。
教えてしまうと、手持ちの材料で思考を深め、目の前のものを注意深く観察する、ということがおろそかになり、生半可な知識で決めつけるようになってしまう。これだと、むしろ教えることは有害。手持ち材料で考える、目の前のものを観察する、これ、重要。極めて重要。
新しい発想を生み出すとき、人間は、手持ちの材料だけで考え、目の前の現象をよく観察するしかない。創造性は、そうした環境で生まれるもの。だとしたら、普段からそうした物事への接し方に慣れておいた方がよいように思う。そうした接し方に慣れるうえで、教えるというのは大変有害。
だから息子には教えない。息子と同じ手持ちの材料で考え、目の前の現象を仔細に観察し、あれこれ仮説を立てるのを楽しむ。同じ土俵に立ってみると、子どもの発想にしばしば驚かされる。驚くと、子どもはますますのめり込む。学習意欲は、そうして強化されるもののように思う。
※ツイッターで次の記事を教えて頂きました。文部科学大臣奨励賞。
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