「許し」考
中居氏の問題は、一体何が起きたのかはっきりわからない。憶測が先行している状態。ただ、被害者は今も許せない気持ちでいること、「人生はもとに戻らない」と発言していること、中居氏から9000万もの示談金が支払われていることから、かなり深刻なことが起きたと多くの人が推察してる。
中居氏が先日コメントを出しているけど、かえって印象を悪くしている様子。では、中居氏はどう振る舞えば「許し」が得られる確率が上がったのだろう?もちろん、被害者に被害を与えなければ一番よかったのだけど、示談も成立し、週刊誌が暴露したその後にどう振る舞えば、事態を軽減できたのだろうか?
私はコメントの中に、被害者に対する申し訳なさを盛り込むべきだったと思う。それがないと「大金払ったんだからもうその件は終わり」にしたがってる印象を与えてしまう。しかし「済んだこと」にしたがってるのが伝わると、「ほとぼりが冷めたらまた同じことをやるんじゃないか」と感じさせてしまう。
いくら大金を積んだとしても、示談になったとしても、「示談で済まさせて頂いた」という「感謝の念」がこもった文章だと、「ああ、本当に悔いているのだな、そして被害者に対して申し訳ないことをした、という意識を今も抱えているのだな」と感じて、かえって「そこまで自分を責めなくていいよ」と、
同情する気持ちが湧く確率が高まるように思う。
人間って不思議だ。「謝ったんだからもういいだろ」と開き直り、むしろふてくされる態度をあらわにする人間には「お前反省していないだろ」と、責め立てたくなる感情を呼び起こす。今回、中居氏に関しては、それが起きてしまったように思う。
逆に「示談もした、示談金も支払った、でもそれは法的な義務を果たしたまでで、私がやらかした罪がそれで帳消しになるわけではない」と認める姿勢が明確だと、多くの人はそれ以上責める気を失う。
開き直ると責め、神妙だとむしろかばいたくなる。不思議な人間心理。
「俺はやれるだけのことはすでにやった、だから責めるな」という防衛姿勢を見せると「お前わかってねえ!自分が何をしたのか分かってるのか!」と責め立てる人を増やしてしまう。
他方。
「自分としてはできるだけのことをする。けれど、許してもらえるかどうかは自分が決めることではない。この身をどうするかはお任せする」と、自分の処遇を委ねてしまうと、不思議と多くの人は許す気持ちになるらしい。
進退窮(きわ)まった鳥が猟師の懐に逃げ込むと、案外猟師はその鳥を撃てなくなるものだ、ということわざがある(窮鳥懐に入れば猟師もこれを撃たず)。不思議なものだが、自分の身を完全に他者に委ねる潔さがあると、それ以上責める気がなくなるという心理が人間にはあるらしい。
今回の中居氏のコメントは、そのあたりへの留意が全然なかった。謝罪文としては失敗だったと思う。自分の処遇を皆さんに委ねる、という覚悟がないと、「許し」というのは得られにくい。
ではなぜ、処遇を相手に委ねる潔さがあると、人は許せる気持ちになりやすいのだろう?それは恐らく、
恩恵を授ける立場になれるからではないか。そして一種の「義理」が発生し、許しを得た側はその義理を守る必要が出てくる。一種の主従関係の契約が結ばれた、と感じる心理があるらしい。自分が優位に立てるようになったことで、許す余裕が発生するらしい。
もし同じ過ちを繰り返したら、その「契約」めいたものに基づき、「お前、あの時反省したと言っていたじゃないか!」と責める権利を獲得する。それを担保にして、許す気になる、という仕組みなのかもしれない。「許す」とは、同じことしたら責めてもらって構わない、という宣誓でもあるのかも。
今回、中居氏のコメントには、「第三者に責められる覚えはない」という気持ちがあふれてしまっているように思われた。しかし、ファンの信頼を裏切ってるし、テレビ局の各方面にも迷惑をかけるかけているし、何もしていないという認識だとちょっと甘い。その上で潔さがなかったので、失敗したのかも。
他者から「許し」を得るためには、そうした「儀式」通りの手順を踏む必要がある。その手順を踏むと、人から許される確率は非常に高くなる。他方、そのことを知り尽くした上で、許しを得ることに巧みで、それでいて同じ過ちを何度も繰り返す人たちがいる。
「反省させると犯罪者になります」という本がそのあたりの事情に詳しい。昔の刑務所や少年院は、ひたすら謝罪の毎日、悔恨の毎日を強要し、やがて表面上上手に反省してみせる事ができるようになると「更生した」と考え、刑を減免するというやり方をとっていた。しかし再犯率は下がらなかった。
表面上、上手に反省できるようになっても、「こんな屈辱的な態度をとらさせやがって」と、内心怨みが募り、かえって再犯への動機を強めているのではないか、という冷静な分析。
この分析に基づき、近年の刑務所や少年院では、表面上の反省を求めるのではなく、自分は何をしてきたのか、自分は何者か、
振り返りを徹底するようになったという。なぜ自分は怒りっぽいのか、すぐにキレてしまうのか、その原因が幼少期の育ち方にあると気づき、その時の不満を爆発させたりする。でもそれがひとしきり済むと、「いや、それでも自分が選択できた道も他にあったのではないか」と考えるゆとりが出てくる。
自分でひねくれ、自分で自分を傷つける道を選んできたのではないか。もうその道しかないと思い込んでいたけれど、そうではないのではないか、と気づき始めた時、初めて自分の犯した罪の意味が理解でき、「そうする必要はなかった、別の道があった」と考えることができるようになるという。
他者から、社会から「許し」をもらうための「儀式」と、罪を犯した人間が同じ過ちを犯さないために必要なステップには、どうも乖離がある。社会が「こいつは反省したようだ」と判断する「見た目」と、本人の中に真に発生する悔悟とには、どうも大きな違いがある。その点は留意する必要がある。
中居氏のコメントからは、そのどちらも欠けているように思われてならない。社会から許しを得るための「儀式」を教えてくれる者もいなければ、本人の中に、自分の行為を真に見つめ直し、同じことを繰り返さないという決意が生まれるように手助けしてくれる人の存在も感じられない。
中居氏は友人が多いように思っていたが、本当に親身になってくれる人はいたのだろうか。社会から許しを得るためには、いったん自分の処遇を社会に預ける覚悟を持たねばならないとアドバイスしてくれる人はいなかったのだろうか。
あるいは、今回の件に関して慌てて反省を求めるのではなく、しかし来し方を見つめ直し、なぜ自分はそんなことをしてしまったのか、幼児の頃からの人生を見つめ直し、生き直すことをアシストしてくれる友人はいなかったのだろうか。
もしどちらかがいれば、結果が違ったように思う。
もはや、社会から「許し」を得る「儀式」に関しては失敗に終わった。ここから儀式をやり直すことは、ほぼ不可能だろう。だとすれば、自分の来し方を見つめ直し、なぜあんなことをしてしまったのかを考え直すステップに入った方がよいように思う。できれば誰かの助けを借りて。
同じ過ちを二度と繰り返さないためには、自分の中に何を育てればよいのか。人間は厄介な生き物で、「反省させられた」と思うと、その反発から「同じことを繰り返して鼻をあかせてやる」という気持ちが生まれやすい。同じ過ちを繰り返すことになりやすい。反省ではどうもうまくいかない。
自分の考え方の根底から再構築し直さないと、回避できなかったりする。この作業は孤独で、なかなかしんどい。しかし、中居氏には、ぜひやり遂げて頂きたい。そうでなければ、被害者の心は救われないのではないか、と思われるから。
まとめると、
・社会的許しを得るには「自分の身柄は皆さんに預ける、どんな処分でも甘んじて受ける」という潔さが必要。
・真に行動変容するには、幼い頃からの自分を見つめ直し、別の行動があり得たことを真に自覚する、時間のかかるステップを踏む必要。
そのどちらも中居氏は欠けていた。
中居氏は、前者のアプローチで既に失敗したので、後者のステップに入り、出直して頂きたい。