観察を楽しむ

「観察」考。
子育てで最も大切なものの一つが、観察だと思う。しかし観察って、意外に難しい。見ているのに見えない、ということがよく起きる。見たい現実しか見えない。見ようとしている願望しか見えない。おそらくこの現象から完全に抜けきることは難しいと思う。

自分の観察しているものは、ごく一部しか観察できていない、という限界を承知の上で、観察することが必要だと思う。これを補正するには、他人の観察を利用するのが大切。人によって見え方が様々。着眼点も様々。それを聞いたうえで観察し直すと、気づきがまた違ってきて面白い。

私とYouMeさんは子育てのことをよく相談するのだけど、考え方、ものの見方は似ているようで、やはり違う。それで気づいていなかったことに気づくこともしばしば。自分一人だけでは気づかなかった着眼点を知るというのは、とても大切。

ところで、そもそも関心がないことには観察眼は働かない、という問題もある。YouMeさんと子どもたちは中日ファンだが、私はそもそも野球に関心がないので、観察さえもしていない。子どもたちが挙げる野球選手の名前は、何度聞いても覚えられない。観察眼は、関心がまず前提になるらしい。

学校の成績にばかり関心がある「教育熱心な」親は、子どもが交友関係で悩んでいたり、もっと遊びたいという気持ちを持っていたり、という点について関心を持たないというか、むしろ子供に勉強以外の関心を持たせないようにしようとしてしまうケースがある。この場合、子どもが荒れてしまう。

勉強だけが好きで、勉強以外の事には関心を持たない子供に仕上げようとすると、子どもが本音でどう思っているのか、分からなくなる。観察しても見えなくなる。ただ、余計なことに関心を持ちだしたな、と、それを排除しようとする。結局、子どもの本音が見えなくなる。

自分の最大の関心事以外のことに子どもが関心を持つことにイライラすると、子どもの心が見えなくなる。観察できなくなるらしい。それはまるで、ノルマ達成に必死な上司が、部下のダラダラ過ごしている様子を見ると苛立つように。

どうも、「評価軸」を持ってしまうと、関心そのものが失われるらしい。学校の成績という評価軸をいの一番に持ってきてしまうと、そのほかのことが余計なものに見えてしまう。むしろ排除したくなる。観察する前に除去しようとする。評価軸からすると、それはただの邪魔でしかないから。

「荘子」のあとがきに、福永光司さんの子どもの頃のエピソードが載っている。母親から「あの木をまっすぐ見るには?」とナゾをかけられた。その木はどこからどう見ても曲がっていた。切断してから熱をかけてむりやり成型する、なんて答えを求めそうな母親でもないし。悩んだ挙句、降参した。

母親の答えは「そのまま眺めればいい」という、人を食ったような答え。
私はこのエピソードを、次のように解釈している。私たちは「まっすぐ」と聞いた途端、まっすぐか曲がっているかという評価軸を心に抱いてしまう。すると万物がまっすぐか曲がっているかでしか見えなくなる。

しかし評価軸をいったん脇に置き、虚心坦懐に木を眺めると。そよ風で葉擦れの音が聞こえる。いい薫り。力強い根っこ。心地よい木漏れ日。樹液を吸いに虫たちが。樹皮が苔むしている。何百年、この木は生きてきたのだろう?五感を通じて、様々な情報が飛び込んでくる。

福永氏の母親が「まっすぐ見る」とは、「素直に眺める」という意味だったのだろう。素直に眺めるには、価値観、評価軸と言ったものを脇に置き、目の前のものをまじまじと観察し、気づいたこと、発見したことをどんどん列挙する作業を楽しむことが大切。

私は、子育てにおいて、関心があるかどうかは別として、興味がないものは興味がないから仕方ないとして、虚心坦懐に観察するようにしている。評価軸を心に抱かず、ともかく観察して気づいたこと、発見したことをどんどん列挙するというゲームを楽しむことにしている。

どれだけたくさんの気づきや発見ができるか、というゲームを楽しむようにしていると、さほど関心がなくても、様々な発見がある。発見がまた新たな発見を誘い、ますます興味関心が湧く。「気づき・発見ゲーム」は、それそのものに関心がなくても観察を楽しめるメリットがある。

たとえば人間は、憎たらしいもの、嫌いなものはそもそも拒否の気持ちが強いので、観察しようとしない。「あいつはダメな奴だ」と断罪し、そこで思考停止する。観察を一切しなくなる。やはり「評価軸」が観察を停止する原因だと言える。

私は、憎たらしい人、嫌いなものでも、観察自体は楽しむようにしている。憎い対象、嫌いな対象と、観察を楽しむこと自体は分けて考えている。すると、憎い人からも面白い発見があり、気づきがあり、嫌いなものからも様々な気づきや発見があって、なかなか面白い。やっぱり憎いし嫌いなんだけど。

観察を楽しむと、観察しなかった時と比べて圧倒的に情報が得られるので、それまでには考えられなかったような対策が打てる。嫌い、憎いという感情が先走ってできなかった手も打てるようになる。それは精神衛生上でもずいぶん楽になる。有効な手を打てるから。

評価軸を脇に置き、観察することを楽しむようになってから、いろんなことが楽になった。冷静に手を打てることが増えてきた。まあ、相変わらず私の気性は激しいままではあるのだけれども。

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