今も心にあの一冊「悲しみよこんにちは」フランソワーズ・サガン著
高校生になると女子と話せない異常さいよいよ昂まり、なまじラジオ、音楽や小説などから影響を受け、さまざまな要素が混在する受け売りひとり上手人間へ。
妄想の世界では湘南の海岸道路でポニーテールの女の子をバイクに乗せ「あいつのことなんか忘れちまえ。」と相当カッコ良く叫んだりした。
海岸にバイクをキュッと停め、なぜかたわわに実ったトマトを「ほらよ」と彼女に投げる。二人してトマトにかぶりつく。するとプシュー!とトマトが弾け二人は踊るように笑い合い、「洗わなきゃ」と海に入りバシャバシャ始める・・・・完璧だ、自分の妄想にいっぺんの曇りもない、と自画自賛した。
おそらく片岡義男の小説をなぞっただけの薄いストーリーだったが当時の心のバランスを保つに十分だった。そこまで予行演習が完璧なのだから現実ライフで通常の受け答えくらい、と期待したが、ただの会話も異常に汗が出て、話そうものなら声が震えて泣きそうになった。これはまずい。不適応が常態化して真人間に戻れなくなるのでは、と自分を疑うように。
考えろ!なぜ女子と話せないのか。考えろ!
女子と話せない→話すと気味悪がられる→そもそも自分は気味悪い→気味悪がられるような心を持っている→心を洗濯する。
チーン。まただ。いつもこの帰結。
これでは心を洗濯するために古書店に向かうしか道が無いじゃないか!(今思えばなぜに?)。でも心の洗濯などできるはずがない!もう赤ちゃんじゃないし。そんな青いことよりどんどん塗るんだ。塗り重ねて、塗り重ねて、振り幅大きく、知って、知って塗り固めて真人間に向かおう!ああ、そうか!女子だ!女子そのものを知らなすぎるからだ!
そして結局古書店に向かうのでした。
女子、女子と・・・。「悲しみよこんにちは」はそんなタイミングで偶然出会ったのでした。
フランソワーズ・サガンが10代で書き上げたストーリーはヒリヒリするような人間関係と朝吹登水子訳の美しい情景描写が相まって、まるで一つの水彩画が描きあがるようにみずみずしく心に広がるのでした。
主人公セシルの成長と葛藤、最後に読み手の気持ちを置き去りにするが如く、胸詰まらされる終わり方、全ては「丁寧に」綴られた言葉でありセシルの心の揺れ動きそのものでした。
そう、それは「女子」ではなく「セシル」でした。
「女子」という幻想を幻想だとはっきりと認識し、人そのものへ向かおう。幻想を越えていくんだ!現実へ臨界突破あるのみ!活字渇望エンジンは火を吹き、女子理解深化よろしく有吉佐和子「非色」岡崎京子「PINK」ハンナ・アーレント「人間の条件」などなどう〜う〜唸りながら読み進むのでした。おそらく気味悪い感じで。