スイッチ
小学生のとき少年野球をしていた。背も低く非力な補欠だった。
ただ、代打に立つとかなり高率でデッドボールになった。ドスン、いてて、一塁へひょこひょこが僕の定番になった。ベンチではコーチや仲間が盛り上がっていた。うれしかった。誰かのため になることが幼いながらも喜びだった。たまに空振りするとベンチはしーんと静まり返った。「ああ、神さま、僕みたいなチビが一人前に打とうなんてしてごめんなさい・・・」と思っていると次のボールが「その通りだ!」と言ってドスンと当たってきた。 するとまたベンチが沸く。身の丈というものをわきまえよう、心からわきまえようと思った。
そして仲間が喜ぶ役割を果たせた僕は 本当に恵まれている、と実感しながらレギュラーになることもなく少年野球を終えた。
中学生になった。少年野球のときの先輩を 追って軟式テニス部に入るとそこは県大会で優勝するような強豪校だった。体も心も小さかった僕はとにかく 3年間部活を続けられ たらすごいぞ、とだけ思っていた。選手としての自分を全くイメージしなかった。とにかく出来ることは声を出すことだけだ。
そうしていると2年生の時、声出しが認められてタイムキーパーになった。タイムキーパーとは時間区切りの練習時に「残り1分でーす!」などと叫ぶ役だ。目一杯やった。自分の居場所ができた。そして明らかに仲間の役に立っていた。もう十分だ、僕の中学校生活は最高だ、と納得していた。同級生は必死に球にくらいついていた。そのうち下級生もその練習に加わった。僕は練習に加わることは認められず相変わらずタイムキーパーだった。僕ごときそれで十分なのだ。
3年生になると1年生の弟が入部してきた。弟は同級生から「お前の兄ちゃん練習させてもらえないんだな。」と言われていた。あ〜。で、でも、仕方がない、これが「身の丈」なんだとあきらめていたし納得していた。
3年生のある日練習試合に向かった。強豪校同士の熾烈なゲー ムが繰り広げられた。当然僕の出番はなかった。すると相手校の監督がこちらを指さし「あの子は試合しないのか?」と言った。 戸惑ったが、監督や仲間はもっと戸惑っていた。
「いや、こいつは力も弱くて恥ずかしながらほとんど打てないんですよ。」
その言葉を聞いてあれれモヤモヤ、そのとき気づいてしまった!僕の存在がみんなを困らせている。みんなの役に立つどころか困った存在になっている!みんなの恥になっている!一瞬で心がクシャッと崩れた。続けて相手校の監督が提案した。「なら2年生の女子と組んで2年生の女子ペアと試合をしなさい。」心がぐちゃぐちゃな僕はくそ!くそ!と何に対して怒りがこみあげているのかも定かでないままその試合に臨んだ。 「へいへいこれは負けられないぞ〜。」と味方ベンチから声が飛ぶ。女子とまともに話をしたこともなかったことも加わり、その場が耐えられなかった。はじめて勝つしかないと思った。が、そんな思いをねじ伏せるように相手ボールは鋭く打ち返せなかった。試合にならなかった。組んだ2年生女子にボールを渡す手は震えていた。
悟られたくなかったが隠しようがなかった。結果は一方的な負けだった。血の気が引きつつ震えが湧き上がった。
そして、そのまま、コートに伏して泣いてしまった。泣くなんて絶対したくなかったのにエグエグと泣き出すともう止めようがなかった。今までの人生何してきたんだ!なぜ勝負から逃げてきたんだ! なぜ甘えた自分を許し続けてきたんだ! 身の丈とか、 立ち向かってもいないくせに何決めてたんだ!強くなりたい!強くなりたい!と土を舐めながら明らかに目覚めていた・・・のでした。
後から考えるとこれがスイッチでした。
結局補欠のまま中学校の部活を終えたのですがあらゆることはここから始まったのでした。受験勉強とともに狂ったように練習を重ね、高校では県の覇権を争うように。大学でも九州学生1部リーグで仲間とかけがえのない日々を過ごしました。本気がぶつかり合う高揚感の中で若い時期を過ごすことができたことにはあらゆる人々、きっかけに感謝しかありません。ちなみに全く歯が立たなかった1学年下の女子はその6年後北京アジア大会で3位となります。人が持つ無限の可能性と一瞬
の交錯、全てはかけがえないことに思えます。
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