![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/125148845/rectangle_large_type_2_8f176126ab9aa6c2fe3b29e9142d0d77.png?width=1200)
校則と自立—日本における教育的対立と権利の理解
校則―これほどまでに議論を呼ぶトピックも珍しい。
そもそも、なぜ我々は学校という小さな社会において、このような規律を問題視するのか?多くの方が、校則は生徒の健全な成長を促し、秩序ある環境を提供するものだと信じて疑わない。しかし、議論を紐解いていくと、これはただの校則に関する表面的な議論に過ぎず、その根底にはもっと深刻な問題が隠れているのだ。
私たちはよく、「校則に法的拘束力はない」と言い、教員が生徒に対して課す力は、実際のところある種の幻想に過ぎないとも言う。言い換えれば、教育界のプロたる教員は、教室というマイクロコズモスにおいて王のように振る舞うが、その力は社会的な立場から派生したものであって、法的なものではないというのだ。これは、意見の一つとして非常に興味深く、また一考に値する。 教師は、しばしば広義の意味で"聖職者"として賞賛される。彼らは若者の心と魂を育む存在として尊敬される。しかし、ここで冷静になって考えてみよう。彼らは確かに尊敬に値する職業に就いてはいるが、彼らもまた、組織の中で特定の役割を果たす公務員である。教育とは、ある意味で社会的契約であり、その中で生徒は権利を有し、教師はそれを執行するというよりも、むしろ導く立場にあるべきなのだ。
校則改正を叫ぶ前に、本当に必要なのは、私たち一人ひとりが自己と他者の責任と権利について深く理解することだ。「何をしてよくて何をしてはいけないのか」というのは、公民の授業で扱われるべき最低限の教養であるべきだ。しかし、その授業時間が現実には極めて少ないのが実情だ。それはただの教育システムの問題というよりは、教育が私たちの生活に密接に関連し、根ざしていないという、より根深い問題なのだ。 私たちには、赤ん坊が自ら立ち上がり、歩くまでに身につける自然な学習能力が備わっている。したがって、日々の生活の中で自然と身につくべきことを学ばなければ、その人は社会の足を引っ張ることになる―残念ながら、日本社会にはそうした現象がまだまだ存在している。
だからこそ、私たちは真剣に、「学問のすゝめ」と言われることの重みを理解するべきだ。学校で「勉強する」という行為は、時に高尚で理想化されがちだが、それよりも肝心なのは日常の中から当然のように学び取る力である。できなければ、社会的に「生き残れない」という厳しい現実がある。
このことから、我々は努力し続けることの重要性を改めて認識する必要がある。 結局のところ、いき過ぎた校則問題は、校則そのものよりも、私たち自身の権利と責任に対する理解と実践の在り方について問うている。そして、それに答えるためには、授業だけでなく、日々の生活の中で自己学習し、成長していく態度が求められるのだ。