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濁浪清風 第46回「場について」⑯

 法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が「浄土を建設する」ということを自己の根本的な願(がん)として、世自在王仏(せじざいおうぶつ)の前で宣言し、あらゆる諸仏の国土の善悪を覩見(とけん)して、その善なるところを選び取り、悪なるところを択(えら)び捨てて、極善の形を作ろうとする(『仏説無量寿経〈ぶっせつむりょうじゅきょう〉』)。そういう物語の表そうとする意味について、人間の歴史が本当の「国」を求めて、しかも現実には真実の国を見いだすことができなかったということがあるからだ、と言われたのが安田理深師であった。

 現実には建設したくとも、権力の固定が始まるやいなや、虚偽と堕落に見舞われて、決して真実の国にはなりえないということが、この世の悲しき歴史なのだ。けれども、人間はこの国土建立の願いを放棄するわけにはいかない。だから、衆生(しゅじょう)の根源の願いを掘り下げて、未来の涅槃界(ねはんがい)を象徴し、一切衆生を救済する場とするのだ、と言われるのである。国土の建設を自己の正覚(しょうがく)のための条件とするということを、法蔵菩薩の誓願(せいがん)が表現している意味の大切さについて、この安田先生の言葉には、なるほどと頷(うなず)かされるところがある。そして、環境としての国土ということは、生命体にとっての絶対必要な条件であるのみならず、ことに人間が社会的な存在であるからには、これを真実の場所として要求せずにはおれないのだということも、あらためて思われるのである。

 しかし、国土ほど人間をたぶらかすものもない。深く人間がその存在の根底に、求めて止(や)まないものがあるからこそ、それを利用して大きく歴史を動かすほどの規模で人間をたぶらかすこともあるのである。それが、近代の国家の為(な)してきた罪悪となったのではなかろうか。だから、この国土建設の願を利用する罪を真から自覚するということは、自己の根底を相対化するつらさに耐えることでもある。そして、この罪に目をつぶることは、自己の根源の深い要求の本質を自覚できないということなのである。

 現在のわれわれは、状況の困難さに目を奪われることなく、この自己の根源の深い要求を自覚することと、その深い要求が方向を変えさせられて犯してきた罪悪の歴史を自覚することを忘れてはなるまい。衆生のそれぞれの本国への要求を、国土建立の悲願として、宿業(しゅくごう)の源泉を洗うがごとくに呼びかけ続ける法蔵菩薩の願心を聞き当てたいものである。

(2007年3月1日)