濁浪清風 第44回「場について」⑭
根源にある場を不可思議なる存在の背景と自覚する、ということ。この場は、静止的な地下水の滞留(たいりゅう)のごときものではなく、われらの表層の意識生活へとささやき続ける。いわば、地下のマグマが地層の裂け目を抜けて吹き出すごとく、われらの煩悩生活の隙間を潜(くぐ)って、宗教的要求となって現れ出る。有限なる人間に、無限が自覚されるということは、この不可思議なる噴出に気づくということなのである。
われらにとっての真の場所とは、このマグマのような力をはらんで、意識生活の根底に静かに燃えている深層の意欲だ、と言えるのではないか。これを、『大無量寿経』を説き出そうとする釈尊は、「本願」として見いだしてきたのであるに相違ない。この根源の場は、一切衆生を平等に摂(せっ)する大地である。この大地が表層の生活に疲れた凡夫に積極的にはたらくことを、「如来の回向(えこう)」という言葉で自覚したのが、親鸞であるということなのだ。親鸞は、凡夫に自覚される一切の宗教的な目覚めの事実を、この根源からのはたらきである回向に由来するものであると見抜いた。修道(しゅうどう)の過程も、その結果である証(あかし)も、この本願の衆生への表現たる回向によって、愚かなわれらに現前することがあり得るのだ。
大悲の回向によって凡夫に起こる宗教現象を、本願の因果による物語をとおして一切衆生に成り立つ本願成就の救済であるという。その宗教的自覚は、有限なるわれらの努力や意欲のレベルからは決して届くことのない、無限の深みと大いなる力を備えている。それを自覚することを「如来回向の信心」という。われらに起こる自覚ではあっても、われら凡夫の表層意識から涌(わ)いたものではない。存在の根源からの表出なのである。だから、マグマの作用の結果、この地上に現出したもっとも堅い物質<ダイヤモンド>に比肩(ひけん)し得るような意識だというのであろう。如来回向の信心は金剛心であると、繰り返して親鸞は確認する。それは、この大地のごとき願心を、動き行く日常の状況に在(あ)りながらしっかりと自覚できるからである、と思うのである。
(2007年1月1日)