濁浪清風 第37回「場について」⑦
浄土とは、願心(がんしん)の荘厳功徳(しょうごんくどく)で表される場所だと世親(せしん)菩薩はいう(『浄土論』取意)。この願心とは、『無量寿経』に語られる法蔵菩薩の四十八願のこころである。その願を場所のもつ功徳として表現したのが、浄土だというのである。すなわち、人間が環境を与えられて生きているという生命の実態に対応して、衆生をすくい取るための環境を浄土として建設する。だからその浄土の環境的な意味とは、救済しようとする志願そのものの表現なのだということである。
これは浄土教の神話的なわからなさを、一挙に根本から切り開くような指摘だと思う。これを親鸞は自己の信念を明らかにするときの根源の立場にしているのである。願心は十方衆生(じっぽうしゅじょう)の救済を、法蔵菩薩の五劫(ごこう)の思惟(しゆい)と兆載永劫(ちょうさいようごう)の修行という神話的時間を通して具体化しようとする。この意味を、親鸞は「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」(『歎異抄』『真宗聖典』640頁、東本願寺出版部発行)とうなずいているのである。
超時間的なかたちで志願の成就を呼びかけ続ける言葉を、自己一人の解放をはたらきかける大悲(だいひ)の言葉であると信受するのである。五劫思惟の願は、一如(いちにょ)の功徳を「名号(みょうごう)」に具備して、衆生のこころにその功徳が転移して染(し)みつくまで、「兆載永劫」の時間をかけてはたらこうとするものと語る。はたらくべき相手の衆生はというなら、固陋(ころう)なる自我心の砦(とりで)にこもって、世俗への関心に染まり続け、清浄(しょうじょう)なる一如の影をも宿そうとはしない。だから「兆載永劫」という超時間をかけても「無倦(むけん)」にはたらこうとするのである。
この環境的な静かな呼びかけが、頑迷なわれらに届くのが、願力回向(えこう)の信心なのだ、というのが親鸞の自覚だったのである。願力の「場」が頑迷な衆生をいつの間にか、場に感応する存在に転成するのである。この場からのはたらきを、われらは知らず求めずして受けている。あたかも自然界からいのちのエネルギーを賜っていることを忘れているかのように、あまりにも存在の根源に与えられているが故に、愚かな分別知(ふんべつち)には見えないのである。世間の事象に対する知恵はいかに賢くとも、この根源に対する感受が抜け落ちているのである、ということなのであろう。
(2006年6月1日)