【デジタル言語学の前段階 ①】人類の起源は言語の起源を辿る
言葉の「意味」とは、各人がもつ記憶である。これまで食べたことのない食べ物の名前を聞いても意味は思い浮かばない。しかし、一度でもそれを食べれば、どんなものかって意味がわかる。名前を知っていても、それを食べたことがなければ、意味はわからない。
言葉の意味がどう進化してきたか、またこれからどのように進化するのか。僕はそんなことを寝ても覚めても研究している。
言語学科卒でもない畑違いの僕が、なぜそんなことを日夜研究しているのか。思い返せば、小学校の卒業文集に「将来は国連で働く」と書いたことから始まっていたと思う。でも、そんなことはすっかり忘れていて、はじめは商社マンになってしまうのだけれど。。
商社マンになってから、僕はあちこち転勤した。それも神の導きとしか思えないような不思議な何者かの力によって職場を動かされてしまうのだ。誰しもそういうことってあるのかもしれないが、僕にとってこのあっちへ行きこっちへ行きの人生は、運命の渦に何度も飲み込まれその中で必死に学び生きようと努力した結果としか言いようがない。
自分の記録として、今日から少しずつ振り返ってみようと思う。
小学校の卒業文集に「国連で働く」
小学校の卒業文集に僕は将来「国連で働く」と書いた。
卒業したのは1972年3月。その年は、6月にストックホルムで国連人間環境会議が開催された。その2年前からNHKが「70年代われらの世界」というドキュメンタリー特集を放映し、環境問題を取り上げていた。それと、高学年の時に読んだ参考書の南アフリカのアパルトヘイトの説明文にあった鉄格子のなかに幽閉されている黒人の子供の写真を見て受けた衝撃!(今思えばヤラセ写真かもしれないが。)
「環境問題」と「アパルトヘイト」が僕に「国連で働く」と書かせたのだと思う。
大学は東大・文Ⅰを受けた。合格発表の時にもらった「全学一般教育ゼミナール」の資料に、国連総会の反アパルトヘイト特別委員会が発行する英文資料を読むゼミ「南方アフリカの現状について」が紹介されていた。迷うことなく、土曜日の午後2時から駒場図書館のゼミ室で開かれたそちらに参加した。講師は、古代中国がご専門の上原淳道(うえはらただみち)教授。隔週で開催され、青山ツインタワー東館にある国連広報センターにニューヨークから届いた総会資料を全員分もらいに行くのが僕の役目だった。
大学3年の夏休みに、南アのアパルトヘイト下で暮らす黒人の様子をみたいと思い、ヨハネスブルグとケープタウンの黒人居住区(ソエト、アレキサンドラ、ニャンガ、ランガ、ググレツ)を訪れた。生まれて初めての海外旅行が南アの黒人居住区で、一人旅だったが、何も怖いと思わなかったし、一度も危い目にあうこともなかった。
当時、アパルトヘイト政策を続ける南アに、日本からのフライトはなかった。パキスタン航空でカラチ経由ナイロビに入り、ナイロビで英国航空のヨハネスブルグ行きに乗り換えた。南アに入国したことがわかると、他のアフリカ諸国に入国できないので、パスポートに入国スタンプを押さない「別紙ヴィザ」をもらった。観光ヴィザがなく、入国に特別な理由が必要とされたため、高校大学の先輩が人事部にいた日商岩井(現在の双日)にお願いして、就職内定者の研修という名目で申請した。
日商岩井ヨハネスブルグ支店のあったカールトンセンターの上層階から黒人居住区の方向を眺めると砂漠のなかに金鉱山のボタ山がみえた。居住区はその先だった。社用車の運転手にお願いして、彼の住んでいる物置小屋に泊めてもらった。はたまた、白人居住区に住む駐在員の自宅にも招待してもらった。短い時間だったがいろいろと経験した。
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