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大谷哲夫編著『永平廣録 大全 』読書ノート(8) 上堂語の時代区分

道元和尚廣録の巻1は、興聖寺語録、巻2は大仏寺語録。巻3から7までの5冊が永平寺語録である。

興聖寺語録(32+94:達磨宗入門以前と以後)


興聖寺は、道元が建仁寺からひとり立ちして、京都の深草に開いた修行道場。道元はここで嘉禎二年(1236)10月に完成した僧堂で上堂を始める。興聖寺での上堂数は126。
うち32は、仁治二年(1241)春までに行われたもので、日本達磨宗が集団入門する以前の4年強いのもの。
残りの94は、日本達磨宗が入門し、二人の弟子が亡くなり、鎌倉武将である波多野義重の招きに応じて越前に下向する寛元元年(1243)7月までの2年強のもの。

大仏寺語録(51)


越前について最初の年は、吉峰寺に仮寓していたので、上堂語はない。翌年7月に、大仏寺が落成したあとも、実はしばらく上堂していない。上堂が再開されるのは、寛元三年(1245)の夏安居の頃。
大仏寺での上堂数は、51。寛元四年(1246)6月15日に大仏寺は永平寺に改称される。それが上道語177。

永平寺語録(73+281:鎌倉以前と以後)

531ある上道語のうち、永平寺での上堂語は興聖寺と大仏寺での上堂語を除いた354(=531-126-51)ということになる。期間は、寛元四年6月から建長四年(1252)末までの6年間。

この6年間は、さらに2つの時期に分けられる。鎌倉下向以前と鎌倉下向以後。道元が鎌倉に行くのは、宝治元年(1247)8月から翌宝治二年(1248)3月。

354ある永平寺の上堂語のうち、鎌倉下向以前に行われたものは、73で巻3に収録されている,鎌倉から帰ってきてから行われたものは、281で巻3に一部と、残りは巻4~7に収録されている。

道元の場所と時期による上堂姿勢の変化

このように道元の上堂語を、実際に上堂された場所(寺)と時期に分析して読み解くことは重要であろう。
実際に自分で繰り返し熟読して、場所と時期が違うことで道元の語る内容がどれだけ違っているかを感じるしかない。

道元の活動時期は、上の区分と、上堂しなかった3つの時期を合わせて、以下のように言い表せるのではないか。

1)興聖寺前期(1~32):仏法をもとめ、明らかにしようとする気概

2)興聖寺後期(33~126):日本達磨宗の弟子たちの不真面目さに困惑

3)(無上堂)* 越前下向後の仮寓期間

4)(無上堂)* 大仏寺に移り住んだが上堂していない時期

5)大仏寺(127~176): 日本達磨宗の弟子たちが本拠地に戻り、ますます増長

6)永平寺前期(177~250):名前を永平寺に変え、仏法を伝える気概
 
7)(無上堂)* 鎌倉下向

8) 永平寺後期(251~531):過去の仏祖の言葉を熟読して、自分独自の教えを展開する


ざっとこれくらいには時期を分割できるのではないかと思う。




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