見出し画像

【道元と宇宙】 19 道元の真の語録と改ざんを含む語録

 

道元の語録をめぐる
真筆と改ざんと偽書の全貌は、
あまりに複雑だから、
図にしないと理解できない。
こう妻に言われたら、つくるしかない。(トップ画像)

 道元の真の語録は祖山本の『道元和尚廣録』だ。
嘉禎二年(1236)10月15日に、深草・興聖寺の法堂で、
弟子たちを前に上堂が行われたのが最初である。

 『廣録』全十巻のなかで、巻1から巻7までを上堂語が占める。
深草・興聖寺語録が1巻(巻1、上堂語数126)、
越前・大仏寺語録が1巻(巻2、上堂語数50)、
永平寺と改称した後、鎌倉行化以前が1巻(巻3、上堂語数74)
鎌倉から永平寺に戻って示寂するまでが4巻(巻4~7、上堂語数281)。

ちなみに巻8は小参・法語・普勧坐禅儀、
巻9は頌古(過去の仏祖への思いを漢詩にしたもの)、
巻10は、真賛・自賛・偈頌(漢詩)であり、
道元の語録において漢詩の比重が大きいことがわかる。

 上堂語数は全部で531。
その約4分の1が興聖寺語録、
10分の1が大仏寺語録、
残りの7割近くが永平寺語録である。

だから道元の語録を永平廣録と呼ぶことはおおむね正しいが、
正確を期せば、「道元和尚廣録」と呼ぶのがより正しい。

その『道元和尚廣録(永平廣録)』には、
祖山本と卍山本の2種の異本がある。

 祖山本は、永平寺に残されたオリジナルな版であり、
特徴は、巻末に識語として各巻に収められた
上堂語の数と漢詩の数が
「上堂語五十九、頌古十」というように
書き入れられていることだ。

 識語をもつのは祖山本だけであり、
祖山本が真筆であることの証である。

卍山本は、卍山道白(マンザンドウハク1636-1715)が
1673年に編集し、出版したものだ。
卍山本は、祖山本『廣録』と、
『道元禅師語録』(通称『略録』)のハイブリッド構成である。

 ここで『略録』とは何かが重要になるが、
ひとことでいうと、謎に満ちている。
なにひとつ確かなことがわかっていない。 

『略録』の正式名称は「永平元禅師語録」
ということだが、その成立にまつわる記録や資料が一切ない。

 順徳天皇の第三皇子とされる
寒厳義尹(かんがんぎいん、1217-1300)が、
道元が示寂するとただちに
『廣録』を中国に持ち込み、
道元と兄弟弟子であった無外義遠(?-1266)に
語録の校訂と序跋を依頼した。

 義遠は『廣録』にある531の上堂語から75を選び、
『永平元禅師語録』(『永平略録』とも、以下『略録』)を編し、
景定四年(1264)11月1日に序文を、
咸淳元年(1265)に題跋を撰している。

義尹は他に二人の跋文をもらって、
文永4年(1267)に帰国する。

 義尹が帰朝して、91年をへた延文三年(1358)に、
永平寺六世・宝慶寺三世であった曇希(どんき)が
それを『永平元禅師語録』の名のもとに出版。
それが昭和5年に岩波文庫入りし、
平成2年に講談社学術文庫入りした。

 つまり、素性の怪しい、
道元の教えを隠す本が
大手出版会社の後ろ盾を貰ったことになる。

 『略録』と祖山本『廣録』の文言を比較すると、
道元に対する冒とく、悪意ある改ざんが、
多数行われていることに気づく。

義遠が選んだ75の上堂語は、
全て何らかの書き換えが行われており、
間抜けなパロディのようになっている。

 たとえば「眼横鼻直」は道元の言葉として
知られているが、
実はこれも改ざんによって生まれたものであり、
道元の言葉ではない。

 元は、祖山本『廣録』上堂語48
上堂に、云く。
山僧、是、叢林を歴(ふ)ること多からず。
只、是、等閑に先師天童を見しのみなり。
然而(しかれども)、天童に謾(まん)ぜられず、
天童、還(かえ)って山僧に謾ぜらる。
近来(きんらい)、空手(くうしゆ)にして
郷(きよう)に還(かえ)る。
所以に山僧、無仏法なり。
任運に、且(しばら)く延時す。
朝々の日、東に出でて、夜々の月、西に落つ。
雲、収って山谷静かなり、
雨、過ぎて四山低(くだれ)り。
三年には必ず一閏。
鶏は五更に向って啼(な)く、と。

現代語訳:
私は方々の老師を回ったわけではない。
ただ天童山の如浄和尚にお目にかかっただけだ。
しかしそれでいた私は和尚に騙されなかった。
むしろ和尚が私に騙されたようなものだ。
私は先年手ぶらで国に帰ってきた。
だから私は仏法なんて持っていない。
毎朝、日は東から昇り、
夜には月が西に沈む。
雲が去り、空が晴れると、
山や谷が静けさを占める。
雨雲が通り過ぎ、雨がやむと、
あたりの山は落ち着いた佇まいになる。
閏年は三年に一度やってくるし、
鶏の鳴くのは朝の四時だ。

 

それが略録1(卍山本の上堂語1もほぼこの内容)
ではこう変わる。

上堂。山僧叢林を歴ること多からず。
只是等閑に天童先師に見(まみ)えて、
当下(ただち)に眼横鼻直(がんのうびちょく)
なることを認得して、
人に瞞(あざむ)かれず、
便乃(すなわ)ち空手にして郷に還る。
所以に一毫(いちごう)も仏法無し。
任運(にんぬん)に
且(しばら)く時を延ぶるのみなり。
朝々、日は東より出で、
夜々、月は西に沈む。
雲収まって山骨露(さんこつあら)われ、
雨過ぎて四山(しざん)低し。
畢竟如何。良久して云く、
三年に一閏に逢い。鶏は五更向啼く。
久立下座、謝詞を録せず。

 鏡島現代語訳:
上堂し説法された。
山僧は、諸方の叢林を
あまり多く経たわけではないが、
ただはからずも、
先師天童如浄禅師にお目にかかり、
その場で、眼は横、鼻はまっすぐ
であることがわかって、
もはや天童如浄禅師にはだまされなくなった。
そこで、何も携えずに故郷に還ってきた。
だからして、山僧には、いささかも仏法はない。
ただ、何のはからいもなく自分の思うままに、
時を過ごしているだけだ。
看よ、毎朝毎朝日は東に昇るし、
毎夜毎夜月は西に沈む。
雲がはれあがると、山肌が現われ、
雨が通り過ぎると、あたりの山々は低い姿を現わす。
結局、どうだというのだ。
しばらくして言われるには、
三年ごとに閏年が一回やってくるし、
鶏は五更になると時を告げて鳴く。
大衆諸君、長いあいだ立たせてご苦労であった。
と言って、法堂の座を下りられた。《謝辞は記録しない。》

 祖山本『廣録』には「眼横鼻直」という言葉はない。
なぜ、道元の言葉ではないものを付け足しているのか。
これは、改ざんである。

 「略録」で眼横鼻直の改ざんがなされた例がもうひとつある。
改ざん部分を[]で表した。

 大仏寺を永平寺と改名した寛元四年(一二四六)7月17日、
天童如浄の命日の上堂。

 天童和尚忌上堂、云。入唐学歩[似]邯鄲。[運水幾労柴也]般。莫謂先師瞞[弟子]。天童[却被道元]瞞。
 天童和尚忌上堂、云、入唐学歩[失邯]鄲。[鼻直眼横無両]般、莫謂天童瞞[学者]、天童[曽被永平]瞞。

 

祖山本『廣録』上堂語184
天童和尚忌の上堂に、云く。
唐に入り、歩を学ぶ、
邯鄲(かんたん)に似たり。
水を運ぶに、幾(ほとほと)労(わずら)ひ、
柴也、般(うつ)せり。
謂ふ莫れ、先師、弟子を瞞(あざむ)けりと。
天童却りて道元に瞞かる。

 現代訳:
天童如浄忌に上堂していう。
大陸で勉強したら、
邯鄲の夢のようだった。
水の汲み運びに大骨折りし、薪も運んだ。
師匠が私を瞞したとは言えない。
師の天童を私が瞞したようなものだ。

   

『略録』上堂語62
天童和尚忌上堂。
云く、唐に入(い)って歩(あゆみ)を学んで
邯鄲(かんたん)を失う、
鼻直眼横(びちょくがんのう)に両般(りょうはん)なし、
謂(い)うことなかれ天童学者(てんどうがくしゃ)を
瞞(あざむ)むくと、
天童曾(か)つて永平に瞞かる。

鏡島訳:
天童如浄和尚の忌日に上堂して言われた。
わたしは入宋して天童如浄和尚に仏法を学んだのだが、
かんじんの仏法もみな忘れてしまった。
ただ、眼が横に鼻がまっ直ぐにあるのが
わかっただけで、格別のことはない。
だからして、天童和尚が学者をだました
などと言ってはならない。
天童和尚がかえって永平にだまされたのだ。

 

 七言絶句の脚韻を壊さないまま、
中身を換骨奪胎している巧みな改ざん。

 深刻な改ざんは他にもある。
祖山本『廣録』上堂語128で「我宗[唯]語句、[眼口競頭開]」とあるものが、
『略録』上堂語25では、「我宗[無]語句、[心與口相乖]」となっていて、
まるで反対の意味になっている。

 『廣録』の読み下しは、
「我が宗は唯語句、
眼と口競頭(キントウ)して開く。」

 現代訳:
私の根本思想は、ただ言葉によって表される。
それを読む目と語る口が、先を争って開かれる。」

 これが『略録』になると
「我が宗は、語句無し。心と口が相乖(そむ)く」

現代訳:
私の教えは言葉では示されない。
心と口は一致しないからだ。

 
他にも、 

中秋上堂。雲[門[糊餅掛天辺。喚作中秋[月一]圓。[天主青衣今正坐。清光潔不若斯筵]。
中秋上堂。雲[開]糊餅掛天辺。喚作中秋[夜月]圓。[睡覚起来無覓処。擡頭忽地見青天]。

 建長3年の中秋の
祖山本『廣録』上堂語448では、

 中秋の上堂、
雲門の糊餅天辺に掛かれり。
喚んで中秋の月一円なりと作す。
天主青衣今正坐、
清光潔しも、斯の筵に若かず、と。

 現代語訳:
雲門は仏を超え祖を超えることを
胡麻饅頭にたとえたが、
その饅頭が天の真ん中にかかっていて、
中秋名月だと言わんばかりの輝きだ。
天帝の青い衣をつけて今私は威儀正しく席につく。
月の光は澄んできよらかだが、
この私の坐る茣蓙にはかなわない。

 

『略録』上堂語45
雲開いて糊餅天辺に掛く。
喚んで中秋の夜月円かなりと作(な)す、
睡り覚め起き来って覓(もと)むるに処なし、
頭を擡(もた)げて忽地(たちまち)に青天(せいてん)を見る。

 鏡島現代語訳: 
八月十五日、中秋の上堂。
雲が開けて
餅のようにまん丸い月が
天辺にかかっている。

いかにも中秋名月とよばれるだけの美しさだ。
さて、ひと睡りして覚めてみれば、
月はどこにもない。
頭を持ちあげてみるに、
ただ忽(たちま)ち青天が見えるだけである。

 

 『略録』では、仏祖雲門が「雲開いて」と変えられ、
糊餅は仏祖を超えるものではなくなる。
名月を見ているうちに眠ってしまい、
目が覚めたら青空だったという
間抜けな歌でしかない。

 白文で比べると、
道元の七言絶句の韻を崩さないで、
笑い話に変えようという意図を感じる。

これは建長3年の中秋で、
道元はこれから『正法眼蔵』と『廣録』の
清書作業にとりかかるぞと、天に報告した場面だ。
それをコケにする改ざん。

 驚いたのは、『略録』の75ある
上堂語、小参、法語、偈頌を
祖山本『廣録』と比較したところ、
祖山本『廣録』にある道元の言葉が
大なり小なり別の言葉に置き換えられている。

 読み下し文で比べてもピンとこないが、
漢文白文を突き合わせてみると、
見事な改ざんぶりがみえてくる。

 「眼横鼻直」は祖山本『廣録』にはどこにもなく、
『略録』および卍山本『永平廣録』にしかみられない。

 「只管打坐」と「眼横鼻直」という、
多くの道元関連の本が紹介する重要概念が
どちらも道元本人の教えではない
改ざんであるということになります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?