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<ことば>をどう使うとホモサピエンスになるのか ー 没後40年、詩人山本陽子をふりかえる

坂井信夫さんの「<ことば>を壊す詩人たち」の中核は、坂井さんが20世紀最高の詩人とみとめる山本陽子(1943-1984)にささげられている。今年、没後40年となり、人類の滅亡がいよいよ実感されているとき、山本陽子についての評論は貴重である。

僕は山本陽子のことを、毎日新聞の夕刊文化欄に掲載された坂井信夫さんの記事で知り、彼女の詩集を手に入れた。なんだかよくわからなかったけれど、気になり、惹きつけられらからだ。30年以上も前のことだ。

「朗読されることを根底から拒否している」彼女の作品『遥るかする、するするながらⅢ』を、ひとり早朝に職場の会議室で声に出して読んでいた時期もあった。すると、まるで、身体がことばのシャワーを浴びているような気分になって気持ちがよかった。

『神の孔は深淵の穴』と『遥るかする』は、2007年に三鷹天命反転住宅で、朗読会もやった。500行もある長編詩『神の孔』の朗読練習は、人気のない早朝の公園でやった。読んでいると、勇気が湧いてくる、不思議な詩である。

 今回、坂井さんの評論をまとめて読んで、山本陽子は、言葉そのものがもつ力を引き出すことで、人間はホモサピエンスへと進化できる、生活や社会のしがらみから解放されて、人間になる道があるということを示していたのだと思った。以下、坂井さんの言葉をいくつか紹介する。

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 晩年とよぶにはあまりに若いーーその最後の歳月を、彼女はどのように過ごしていたのだろうか。(略)私の想像では、<書く>ことを放棄した山本陽子は、しだいに<子供>に帰っていったのではないだろうか。あの幼かった日々、なにかの為ではなく、ただ読むことの愉しみのために本を読みふけった日々ーーそこに彼女は帰っていったのではないか。(p49)

 

山本陽子が初期作品『神の孔は深淵の穴』においてめざしたのは<自由>の獲得であった。おびただしい「自由」の二文字は、これまで人間がつくりあげてきた思想によって縛られていた思考方法を、どこかで根こそぎ転倒しようという企ての<はじまり>であった。さらに、人間のあいだに生じる<関係>および関係意識からのまったき解放が、そこにはこめられていた。それらを実現するためには、ではどこから始めるか? そう、あたかも自分がさいしょの精神であるかのようにラッパを吹きならすこと、である。彼女は、こう記しているーー「二〇世紀は おそらくひとつの終末に近づいている。わたくしたちは 精神の旧石器時代人、ネアンデルタール人なのだ。精神の新石器時代人、クロマニヨン人は、歴史的人類の死滅のあと、はじめて新しい人類として、この世界にやってくるだろう」と。(P55)

 

疾走の終りから宙空への移行時には、おそらく破棄された作品、『遥るかする、するするながら』ⅠとⅡがあったと推定される。さて、そのⅢにおいて山本陽子はついに宙天を水平にうごきはじめていた。そうした意識がヨコ書きというスタイルを必然的にとらせた。このとき日常性とか社会性は、あたうかぎり捨てられていった。仕事もほとんどしない。ひとり部屋にこもっては家族の侵入さえ拒みつづけ、ひたすら書くことと考えることに没頭した。(略)そのころウェーベルンに遭遇した。「りり、りりり、りりり」という音は、風のようにウェーベルンの弦楽音がながれてゆく描写である。(P57)

 

ことばの意味を失わず、なおかつ音楽に近い表現を可能にするためには、いきおいリズムと音(サウンド)に力点をおかれなければならない。またアルファベットではなく、漢字とひらがなの組合せで書くとなれば、視覚的要素も加えねばなるまい。つまりは視覚=漢字、リズムと音=ひらがな、それらの統合としての意味ーーこれが山本陽子が横書き詩においてめざした<ことばによる作曲>であった。彼女を誘ったもうひとりは、ほかならぬウェーベルンであった。その渇いた魂にとって、彼の無調=十二音技法は宙空を漂っていくのにもっとも適したものであった。その点描主義は、ことばを切断し、そして続けてゆく方法を、とりわけ室内楽作品によって彼女に教えた。かわいたピチカートの音は、宇宙のなかに彼女が幻聴していた音を具現したものであった。

≪くるっく/くるっく/くるっくぱちり ・・・・・・・ きゅっく、きゅっく ・・・・・・・ りり、りりり、りりり・・・・・・ あゆーん/あゆーん ・・・・・・ とおーん/とおーん/たん/たん/たん・・・・・・≫

山本陽子は自分ひとりが所有しえたプラネタリウムのなかを水平に漂流しながら、こうした音を聴いていたのである。(P80)

 

山本陽子の詩は、朗読されることを根底から拒否している。内在的に、といってもおなじことだ。なぜならばその音韻は、彼女ひとりが漂流している宇宙のまっただなかから発信されたものであり、にんげんの声というぬくもりを消しさったパルスだからである。いわば究極のつぶやき、開かれただけの唇、弦のピアニシモ、凍りついたリズム、渇ききった眼・・・・・・つまりはサウンド・オブ・サイレンスのきわみ、であるから。(P80-81)

 

山本陽子の詩は、どのような目的のためにも書かれなかった。ただ<世界>と人間とを幻のうちに提示するためにのみ記されたのだ。それは、いま・ここの<黙示録>とさえ呼べるであろう。(略)彼女は有名になることを嫌い、どんな詩人会にも属せず、また詩壇からさえも孤立した。(P90)

 

働かざるもの食うべからずーー罠のようなこの戒律を彼女は、かろうじて潜りぬけて生きてきた。無垢なたましいと理想の高さにおいてはシモーヌ・ヴェイユに近似していたにもかかわらず彼女は、だが貧しさの吹きだまりに目をむけるとか、社会の変革にコミットしようとはしなかった。「神を待ちのぞむ」ことさえしなかった。ただひたすら人間そのものが根源的に変らねばならないことだけをメッセージとした。ヴェイユとは異なり、むしろ働くことを拒絶したがっているかに思われた。きっかり自分が生きていけるだけの報酬を時間にあたえたのである。余の時間はわたしのものーーそう彼女はいいたげであった。もし萩原朔太郎のように家に財があり、それを食いつぶしてゆく過程がありえたならば、たぶん彼女はさらに壮大なタペストリーを、ぼくたちに遺していったにちがいない。愚劣で醜悪な生きものがこの世界をのし歩いて支配し、まったき無垢なたましいがモップを担いでビルディングを掃除している・・・・・・この構図こそが、ぼくたちの世界のありさまをそのまま告げているのだ。(P99-100)

 

坂井信夫評論集『<ことば>を壊す詩人たち』(2024年、花鳥社、3800円+税)より


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