パブロフ博士の犬供養(6)
(6) 説明できなかった実験の結果だけ残す
廣瀬武夫は軍人だったが、その日常は文化交流大使のようで、しばしば日本の文化や風習を話題にした。ある日、廣瀬は、日本には針塚、筆塚、包丁塚など、使った道具の供養をする文化があると説明した。そしてパブロフのように動物を使った実験をする場合、日本人なら動物を供養するための塚を建て、慰霊祭を執り行うだろうと言い添えた。
あれは自分への助言だったのか。パブロフは研究所での研究生活を終えるにあたって、廣瀬の言葉を思い出していた。予定よりもたくさんの犬の大脳を切除したことをパブロフも心苦しくおもっていたのだ。
パブロフの条件反射は、デカルトの反射概念に根差している。条件反射は、大脳皮質の感覚野から運動野に新たなシナプス結合が生まれて、構築される。そのため「大脳半球のない犬は、条件刺激にたいして決して唾液は出てこないだろう」(上、46頁)と講義で述べた。それを証明するための実験だったのに、大脳皮質を切除しても、消失は一時的にしかおきず、条件反射は回復した。この驚くべき結果を念には念をいれて確認するために、母数と条件を増やさざるを得なかったのだ。
それでも結果はことごとく予想を裏切ったため、講義のなかでひと言もそれについて触れることができなかった。だが予想と違った結果であっても記録に残すことが、犬の供養になるのではないか。パブロフは、大脳皮質切除実験について、できるだけ詳しく報告する決心をした。
パブロフの条件反射実験が、大脳皮質の切除に3章も割いていることはあまり知られていない。ウェブ上から無料ダウンロードできる英語版の「条件反射」は、なぜか第1講からではなく、第18講から読むように並べ替えられている。第19講から第21講で展開される大脳皮質切除の章を読んでもらいたくて、誰かが意図的に並べ替えたのだろうか。そうでもしないと、前半だけ読んで読者が満足するほどの大著だからだ。
日本の高名な脳科学者である時実利彦(1909-1973)は『脳の話』(岩波新書)のなかで、その弟子の塚原仲晃(1933-1985、御巣鷹山の日航機事故で亡くなった)も没後に遺稿をまとめた『脳の可塑性と記憶』(岩波現代文庫)のなかで、パブロフの条件反射実験のことを紹介しているが、二人とも大脳皮質を切除した実験のことまでは言及していない。この部分の重要性を評価できるほど暇じゃなかった、読み込む時間が取れなかったのだ。
パブロフが犬の大脳皮質をさまざまなやり方で切除して、手術の結果犬がどうなったかの記述は、読むだけでもつらい。大脳切除の後、瘢痕(はんこん)が生じて気が狂い苦しんで死んでいった犬たちに心を奪われて、そもそもなんのための実験だったのかと考える余裕がうまれない。そしてパブロフも実験の目的や結果のもつ意味を説明していない。
「大脳半球の部分的切除のあと条件反射は消失する。それも全部の条件反射ではなく、大部分は人工的な、実験室でつくられた条件反射、つまり比較的新しい訓練回数の少ないものである。」(下、123頁)
「手術後無差別に条件反射はみな消失する。消失期間はさまざまで一日から数週間、時には数か月に及んだ。」(下、124頁)