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大谷哲夫編著『永平廣録 大全 』読書ノート(10) 法語に登場する了然道者
とりあえず531の上堂語を全部読んだ
大谷哲夫編著『永平廣録 大全』は、全部で8巻。前半の1~4巻は、道元が法堂で弟子たちに語った531の上堂語である。(全10巻ある道元の『廣録』では巻1から7に対応)
上堂語は、ほぼ年代順に編纂されていて、巻1が京都の深草興聖寺、巻2が越前・志比庄に新たに建てられた大仏寺、巻3が、大仏寺を永平寺に改称して鎌倉に行くまで、巻4から7が鎌倉から永平寺に戻ってきて示寂するまでである。
上堂語を繰り返し読んでいくと、道元の語る言葉から、そのとき道元のおかれた状況、道元の回りで起きた事件、喜怒哀楽などをだんだん感じ取れるようになる。(上堂語の時代区分)
こういう道元理解は、従来およそ全ての道元研究者が、道元は1248年に鎌倉から戻って1253年に示寂するまで、体調が悪くてたいした仕事をしていないと説明してきたことと矛盾する。実際、道元は鎌倉から戻ってきてからの約5年間で、もっとも高いペースで上堂語を残している。これまでの道元研究は完全に間違っていたのだ。
何故? これまでの道元研究者が、廣録の上堂語を読まずに道元を語ってきたからだ。大谷『永平廣録大全』のおかげで、何度も何度も読み返して、道元の心中に迫るまったく新しい道元研究が可能になった。
巻8 法語に登場する了然道者
さて、大谷『永平廣録 大全』の第5巻は、『道元和尚廣録』の巻8に対応していて、小参、法語、普勧坐禅儀である。
僕が6年前に上梓した『道元を読み解く』は、正直いってこの巻8にある文章には触れていない。上堂語と取っ組み合うだけで、いっぱいいっぱいだった。だから、小参も、法語も、きちんと読まないままだった。
今回、大谷『永平廣録 大全』のきわめて信頼性の高い出典考証、語義解説、補注参究を参考にしながら、それらを読んでみると、意外や意外、オモシロイ発見があった。それはとくに法語のところだ。
法語とは、「宗師家が仏道参学人に対して仏法の道理を懇切に説いたもの」で、「主題を鮮明にし、その主題に沿って懇切に撰述し示衆されている」。(永平廣録大全、巻5、P135-6)
法堂で弟子たちに説いた上堂語とちがって、いつ、どこで、誰に対して、説いたかが明らかにされない。そのおかげで、自由に言いたいことを言える。
たとえば、法語4、9、12には、了然道者という人物が登場する。大谷は「尼僧で道元の法嗣ともいうが、詳細は不明。」と語義解説するだけだ。実在したかどうかの考証もできていない。
この了と然という二文字から連想するのは、道元と同じ藤原氏の一族で、道元よりも十数年早く入宋し、道元が鎌倉を訪れたとき、鎌倉・寿福寺三世だった大歇了心(だいかつりょうしん)と、道元と同い年で鎌倉・七里ガ浜の光明寺開山然阿良忠(ねんなりょうちゅう)とという鎌倉仏教界の両頭である。
了然道者が登場する法語は、もしかしたら、この二人のうちどちらかが起草したものかもしれない。
トンデモナイ思いつきのようであるが、上堂語を読んでいるときも、了心の影を何度も感じたので、法語に登場する了然道者は、状況証拠ともいえる。