パブロフ博士の犬供養(8)
(8) レクイエム
説明できないために公表を控えていた実験結果を、すべて講義で話したことで心が軽くなったパブロフは、犬たちを鎮魂するミサをあげることにした。それを研究所の職員に打ち明けると自分のこれまでの説明と矛盾することになるので、娘のヴェーラだけともなって礼拝堂に向った。ヴェーラは、パブロフの研究室で生理学者として働いていたが、教会で聖歌隊に属していた。娘は犬供養のミサを理解してくれた。彼女も中学生のころ廣瀬武夫から聞いた供養話を今でも覚えていて、いつかそうしたいと思っていたのだ。
ロシア正教会の礼拝堂は驚くべき音響効果をもっていて、たった一人の歌声でも礼拝堂のなかを聖なる声で響かせる。パブロフの祈りの声とヴェーラの歌声は、露日戦争で死んだ廣瀬武夫と、収容所に送られた共同研究者たちと、実験の結果死んだ犬たちの慰霊と鎮魂に向けられた。
パブロフは、20世紀の科学者であり、マックスプランクの量子力学によって世紀が幕を開けたことを重く受け止めていた。観察することができない脳のなかの働きを、自分は涎の数を数えたが、きっと将来誰かがもっとよい方法を考えつくだろう。そうなったときも自分の実験結果が後進の役に立つことを祈った。わかったこともわからなかったことも、ともに正直に記録したことは、未来の読者を資するだろう。
パブロフは講義の終りに自らの過ちを告白することにした。
「大脳半球皮質の反応性が異常と言ってよいくらい多様でそこへ入ってくる刺激が莫大なものである」。「通常の思考の弱さ――常同性と先入観による偏見が表面に出てくるのも理解できる。思考はいわば関係の多様さに追いつくことができない。だからこの研究でしばしば間違いを犯さねばならなかったのである。私が報告したデータの中にもかなりの、あるいは多くのと言った方がよいかも知れないが、失敗があると思っている。しかしこのような複雑なものに立入ろうとするならば間違いをしても恥かしくはない」(下、186頁)