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人生は思うようにならない
「考える」と「思う」という言葉は正反対の性質がある。
ADHDの僕には「考える時間」が必要だと考えている。
そしてADHDでなくても「考える時間」が人間には必要だと考えている。
「考える」と「思う」の違い
「考える」ということは”理論的”で、
「思う」ということは”情緒的”だ。
「あの人のことを考える」
と言う場合「あの人はなぜ?なにを?どのように?」と論理を組み立てて、”あの人”を見るという言葉のニュアンスがある。
「あの人のことを思う」
と言う場合、湧き出る感情のまま”あの人”を見るという言葉のニュアンスがある。
だから
考えることは、理性的(理論的)であり
思うことは、情緒的(直感的)である
また「考える」ということは”継続的”で
「思う」ということは”一時的”だ。
「明日までに考える」
という場合、論理をもとにして、継続的にその物事を見つめている。
「明日までに思う」
とは言わないことから、思うことは一時的にその物事を見つめているという性質があることが伺える。
だから
考えることは、継続的であり
思うことは、一時的である
「考える」ということは意識的で
「思う」ということは無意識的だ。
「僕は考えた」
という場合、意識的にその物事を見つめている様子が伺える。
「僕は思った」
という場合、無意識的にその物事を見つめている様子が伺える。
だから
考えることは、意識的であり
思うことは、無意識的である
だから何?
「思考」という言葉は「思うこと」と「考えること」の両方を合わせた言葉だ。
人は理性と感性の狭間で生き「思い」「考え」ながら生きている。
「感情に振り回される」という言葉があるが
「理性に振り回される」という言葉はあまり聞いたことがない。
なぜなら「理性」とはコントロールするものであって、振り回されるものではないからだ。
「感情」とはコントロールできない無意識であるから、振り回されてしまっても仕方がないのだ。
人生に「振り回されている人」はいつも「思い」に偏って生きているからではないだろうか。
”思う”ことは無意識なのだから、人生が”思う”ようにならないのは当然の事だ。
人生は継続していくものであり、ヒトは考える生き物であり、人は意識する生き物であるからだ。
以上のことから
「思う」ことは感情的で、一時的で、無意識的であるが故、思うだけでは言葉通り「人生が思い通り」にならないのは当然なのかもしれない。
と僕は考えている。
「人生」は「人」として「生きる」から人生なのだ。
”思い通りの人生”などなくて、”考え通りの人生”があるだけなのかもしれない。
だから僕は、ヒトとして考える時間も大切にすべきだと考えている。
終わりに
ADHDは直感で動いてしまうことが多い。
自然と感情が湧き出て、動物的に自由を求めてしまう。
僕の場合放っておいても、情緒や感情は人一倍湧いてきてしまう。
良い面もあるが、放っておくと、部屋が汚くなったり、クレジットカードで沢山買い物してしまったり、人を傷つけたり、約束を破ってしまったり「思い通りにならない」と、ADHDに振り回されてしまう。
振り返ってみると「こう考えている」という時よりも、ぼーっとして「こう思ってる」ってことが多い。
たいていそういうことは上手く行かないようだ。
だから、僕には圧倒的に「考える時間」が必要なのだと考えている。
湧き出る思いや情緒は止めようがない。
素晴らしいものだから、止める必要もない。
その湧き出る思いや情緒を、考えることで制御することが必要なのだ。
感情は人生において毒にも薬にもなる。
感情的になり着信を無視し、後悔する人生を送ることもあれば、
感情的になり動物を助けて、後悔しない人生を送ることもある。
包丁と同じように、
振り回すと人を殺すこともあるが、
使いこなせば優れた道具にもなり得る。
「思い」という感情に蓋をするのではなく「考え」によってそれを使いこなすことで、人生はもっと上手く行くのだろう。
思いは絶対的で変えられないものだが、
考えは相対的で変えることができるものだ。
イコンとアイコンの関係の通り「思い」を無理に変えることはできなくても「考え」を変えることで思いにも変化が生じるはずだ。
思い通りにならないと思う人が、もしいれば「考える時間」をとってみてほしい。
僕はnote以外でも、仕事に取り組む前や、これからの人生を生きる前に「考える時間」をきちんととって、生きていきたいと”考えて”いる。