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「微笑みの国」の智慧

ほんの数年前まで、私の周囲では「タイ料理なんて一度も食べたことがない」という人が圧倒的に多かった。
それが、わずかのうちにスーパーにもあたりまえのようにタイの食材が並び、コンビニに行くとパクチー風味の新商品がある。
タイ人が鮨を覚えたのに少し遅れて、どうやら日本人もタイフードに目覚めはじめた。

タイは北に中国、西にインド、東にベトナム、南にマレーシアという、異質な文明の十字路にある。
それらのエッセンスを巧みに取り込みながら、ローカルの食と宮廷料理を調和させたタイ料理は、タイという国の文化というか、生き方そのものに感じられる。
けっして他の誰かではない揺るぎないアイデンティティを持ちながら、異質な他者を肯定し、その良さを全部取り込んでしまう。

タイ族は、もともと中国の雲南あるいは華南にいたが、13世紀半ばにモンゴル帝国の南下を逃れて、モンやクメールが先住民だった今のタイ王国の地域に侵入したとされている。
日本の食文化の少なからぬものが雲南や華南に由来していることを考えれば、じつは日本とタイは互いにそれほど遠い存在ではないように思われる。
年々、まるで熱帯のような気候になりゆく日本で、私たちがタイフードに魅了されていくことも、どこか自然の理に適っているのかもしれない。

私の初めての海外旅行は、いかにも唐突だった。
26歳になるまで、海外に行ったことがなかったし、当然パスポートも持っていなかった。

あれは昭和が平成に変わって数週間目のことだ。
中学校時代の級友がバンコクの旅行会社に勤務していて、たしか社用で東京に来た折に1週間ほど私の家に泊めてあげたのだったと思う。
彼は、あと数日で再びバンコクに戻る。
私は不意に、ここで一緒についていけば、願ってもない添乗員付きの旅行になるではないかと思い立った。

友人はさすがに呆れた様子だったが、一宿一飯ならぬ数宿の恩義とプロとしての気概を感じたのか、すぐに手配に走ってくれた。
わずか数日後、私はパスポートと航空券を手に、彼と一緒に成田空港からバンコクへ飛び立っていた。

まだ現在のスワンナプーム国際空港ができる前、ドンムアン空港がタイの玄関だった時代である。
降下した機体が厚い水蒸気の壁を抜けると、眼下に一面の水田が広がり、そのなかに尖った屋根の建物がポツポツと見えた。
迎えに来ていた日本語がペラペラのタイ人スタッフの運転する日本車に乗り、そのまま友人と一緒にマーブンクローンセンターの向かいにある、友人の勤務する旅行代理店のオフィスに向った。

街には慣れない匂いが充満していた。生ゴミとジャスミンライスとナンプラーの混ざったような匂いである。
バンコク市内には細い水路が網の目のように走っていて、夜の屋台街では、人々が氷の入ったグラスに生ぬるいシンハービールを注いで飲んでいた。
たしか3泊4日の短い旅だったが、真ん中の1泊は友人に手配を頼んでオリエンタルホテル(現マンダリンオリエンタルバンコク)に泊まってみた。

バスタブのカランをひねっても、まだドブ臭い濁ったお湯しか出ないような時代。
それでもオリエンタルは世界の銀行家たちが選ぶランキングで「世界一」の座を長く不動のものにしていたからだった。

翌日チェックアウトして、ドアマンにおずおずとタクシーはどこで拾えばいいかと尋ねた。
するとドアマンが指をパチンと鳴らすや、奥に停まっていたホテル所有の真っ白のベントレーが目の前に滑り込んできた。
私は肩が凝るほど緊張したまま、そのベントレーで友人の旅行代理店まで運んでもらったのだった。

次に20年ぶりにバンコクを訪ねると、あの懐かしい匂いは健在だったが、水路はことごとく道路に変わり、摩天楼が立ち並び、BTSと呼ばれるスカイトレインが人々の足になっていた。
そこからの10年、何度バンコクを訪れたことだろう。通算すれば、10年間のうちの半年以上はバンコクにいたかもしれない。

訪れるたびに、あの街に漂っていた匂いは薄れていき、道路に散乱していたゴミが徐々に消えていった。
生魚など絶対に口にしなかったタイ人たちが、あたりまえのように鮨を食べ、飲めたものではなかったコーヒーまで旨い店が現れるようになった。
今では東京よりバンコクのほうがスタイリッシュで、時代の先をいっている感さえある。

おかしなもので、昔は体調を崩すとおかゆやうどんを欲していたのが、今はタイ料理を食べたくなることのほうが多い。
中華や韓国料理にはやはりヘビーさを感じるのに、タイフードはどこか身体の深いところに馴染むのである。

タイにはまったのは、単に親しい友人が何人も住んでいるからという理由だけではない。
まず、数カ月も見なければ景色が変わってしまうほど伸び盛りの勢いの魅力があった。
育つものに触れると、こちらの生命まで充実する。
タイから東京に戻ってくるたび、毎回まるで街中が斎場のように静まり返って感じられるのだ。

もうひとつは、とりわけ首都バンコクが持っている居心地の良さだ。
30代の10年間をバンコクで過ごしたという室橋裕和氏が、著書『日本の異国』の「はじめに」でこう記している。

マンションはパスポートひとつあればその日から住めた。日本食には事欠かない。なによりタイ人は、外国人とのつきあいによく慣れているようだった。
(中略)
タイは歴史的にも地理的にも外国人を広く受け入れ、その力をうまく利用する形で発展してきた。けっこうな国際社会なのである。僕も日本人だからといって特別視されることもなく、かといって警戒や不審の目で見られることもなく、というよりは単なる隣人として放っておかれた。

もちろん「微笑みの国」といっても今も実質的な軍政下にあり、いざとなれば外国人はもっとも弱い立場になる。
この半世紀の間だけでも、タイ社会では幾度も大きな政治的衝突があった。
そして、タイの人々はタイの価値観や文化をとても大切にしている。寛容に見えて保守的な部分もあるし、格差があり、差別もある。
それでもやはりというべきか、それだからこそというべきか、とくにバンコクのような都会の人々は、異質なものに慣れているように振る舞い、多様であることを拒まない空気を持っているのだ。

ある時、私は東京の自宅近くを歩きながら、前からやってくる人の服装を見て「この人はまた、ずいぶん変な格好をしているな」と思った。
そして次の瞬間、そのように思った自分に気づいてギョッとしたのである。
たかだか服装にまで、この季節のこの場所で、この年齢の男性は(女性は)かくあるべしという「同質」を求める固定観念。
それが、自分のなかに強くあることに気づいて戦慄したのだった。

考えてみれば、バンコクでは電車のなかでもデパートのなかでも街路でもレストランでも、さまざまな国の人がいた。
単に国籍や民族が多様なだけでなく、体型も服装も習俗もてんでバラバラである。
そもそもタイ人自身が、外見はマレー系から日本人のような顔までさまざまであるし、トランスジェンダーの店員などに出会うことも珍しくない。

タイの人々、わけてもバンコクの人々は、内心はいざ知らず、少なくともそうした〝異形〟を「単なる隣人」「単なる通りすがり」として扱うように見える。
そして、そんな寛容な社会にほんの何日か身を置いていると、こちらも自然に異質なものに対していちいち過剰な反応をしなくなる。

私は、もし自分が今バンコクにいて同じように前からくる人の服装を見たなら、それを「変な格好だ」と奇妙には感じなかっただろうと思った。
それなのに、東京にいる私の目はすっかり硬直していて、同質の均衡をどこか破っているように見えた赤の他人に違和感を覚えたのだ。

バンコクでいつも感じた居心地の良さは、かの地の人々の寛容さだけでなく、なにより、それに包まれて自分自身が寛容になっていることの心地よさだったのだと私は気づいた。

島国の日本に対し、陸続きで複数の巨大な異文明と接し続けてきたタイは、異質なものを受け入れ、それを上手に生かす術を身につけてきた。
アジアで欧米の植民地化を逃れた国は、日本とタイだけである。
日本は、旅行者としてやってくる異邦人には親切だが、隣人として暮らす外国人には警戒心や偏見、差別が根強い。
むしろこれから、私たちがタイに学ぶことは、たくさんある。

私はなんとなく、自分の最期はあの国のどこかで迎えそうな予感がしているのである。




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