ヘミングウェイの島
海の上をどこまでもハイウェイが続いている。
映画で見たのかコマーシャルで見たのか定かでないが、その同じ光景が自分の目の前にある。
マイアミの北隣、フォートローダデールでレンタカーを借り、フロリダ半島の先からキーズ諸島の島づたいに全米最南端のキーウエストに向った。
マイアミが全米でも最も治安の悪い都市のひとつに数えられていた時期。
車を手配してくれた沿岸警備隊勤務の友人は、出発前、レンタカーであることを示すマークを隠すために、車体に大きめのステッカーを貼ってくれた。
なぜレンタカーだとわからないようにするのかと訊くと、旅行者だとバレるとハイウェイを走行中に襲われる可能性があるからだと言う。
思わず出発をためらいそうになった私に、友人は「シールで隠したから大丈夫だ」と笑って、陽気に送り出してくれた。
キーウエストまでは約300キロ。東京から豊橋ほどの距離である。
標識だけを頼りにフロリダ半島を抜け、海上を走るようになって、ようやく緊張が少し和らいだ。
ノンストップでキーウエスト島に到着したのは正午。何はともあれ空腹を満たそうとデニーズに入る。
クラブハウスサンドイッチと適当なサラダを頼んだら、オーダーを取りに来た黒人のおばさんに、サラダは一番小さいサイズにしておけと忠告された。
運ばれてきたサラダは日本で見るLサイズよりはるかに大きく、おばさんは「ほらね」という表情で笑ってみせた。
島の面積は15平方キロメートルあまり。市街地もこじんまりしている。
しかし、なにより驚いたのは、ここが同じアメリカなのかと思うほど、平和で穏やかな空気に満ちていたことだった。
クリスマスのグッズ専門店のガラス戸の内側では、トナカイの角のカチューシャをつけた大型犬が昼寝をしていた。
手を繋いだり腰に手を回し合って歩く同性カップルも目につく。
沿岸警備隊の友人は、キーウエストはアメリカでも一番安全な土地なのだと話していた。
日が暮れるまでにフォートローダデールに戻らないといけないので、それほど島に長居はできない。
キーウエスト灯台と、「キューバまで90マイル」と書かれた全米最南端の位置を示すブイを見たあと、「アーネスト・ヘミングウェイの家」を訪ねた。
1899年生まれの文豪が1930年代の大半を過ごした家。それが、そのまま博物館として旅行者に開放されている。
ヘミングウェイはこの家で数十匹の猫を飼っていた。
今もここに居ついている猫たちは、その子孫なのだという。
161人の天才たちの生活習慣を綴った『天才たちの日課』(メイソン・カリー著/金原瑞人・石田文子訳)によると、ヘミングウェイは早起きで、毎日午前中に仕事を済ませてしまっていた。
二日酔い知らずで、前の夜にどれほど酒を飲んでも、夜明けとともに起きて仕事をした。
ただし、その執筆スタイルは少し変わっていた。
ヘミングウェイは立って書いた。胸の高さまである本棚の上にタイプライターを置き、その上に木製の書見台を置いて、それに向かうのだ。最初の草稿は薄い半透明のタイプライター用紙を書見台にのせて、鉛筆で書く。それがうまく書けると書見台をタイプライターに替えて打っていく。ヘミングウェイは毎日、書いた語数を表に記録していた。それは「自分をごまかさないためだ」という。執筆がうまくいかないときは、さっさと切りあげて、手紙の返事を書く。それはいい息抜きになった。〝執筆という厳かな義務〟――これをヘミングウェイはよく〝厳かに書かねばならない義務〟と言い換えた――から解放してくれるからだ。(『天才たちの日課』)
そこここに猫の気配がするコロニアル様式の屋敷をあとにして、ふたたびハンドルを握り、海の上をひた走る。
日本と車線が逆であることを忘れ、夕暮れのフォートローダデール市街に入ってから、危うく反対車線に右折しそうになった。
ミネアポリスで白人警官が黒人男性を地面にねじ伏せ、9分間も首を膝で押さえつけて死亡させた事件を受け、1週間が経った今も、全米各地で抗議活動が続いている。
テレビやインターネットを通して伝わってくるその映像を見ながら、数時間だけ過ごしたキーウエストのことを、なぜか思い出した。
あの、まるで別世界のように隔絶された、明るく穏やかな島を。