松本大洋「東京ヒゴロ」1巻 3つのメタファー

松本大洋先生の連載中の作品「東京ヒゴロ」
2巻まで読んだところで、1巻に立ち返って印象的だったシーンについてメモ書き

■傘(塩澤の心情)
(P.5,6-7見開き)
物語の最初、「あ。」と言って主人公である塩澤の傘が風に飛ばされる。
この時点ではまだただ風で傘が飛ばされた以外になんの意味もない。

(P8-24)
漫画編集者として勤めてきたが、自身の失敗の責任から退社を決意した塩澤。
同僚への挨拶とデスクの整理を済ませ、以前担当していた漫画家みやざき長作に会いに行き、退社の理由などを話す。

(P.25-27)
再び傘が飛ばされるシーンが描かれる。

この時点で一旦予想されるのは、
傘=漫画編集者としての仕事 or 出版社という、自分を守る傘
というメタファーである。
傘が飛ばされていってしまうのは、
編集者という仕事や出版社との別れを匂わせている。
(あくまでこの時点では)

間に(P8-24)の内容を挟む構成を取ることで、
およそそのような意味だったんだとわかるようになっている。
※ちなみに、同じシーンを2度書いているのかと思ったが、
背景のコーヒーショップの名前が、最初は「Penguin」、長作と会う喫茶店は「ロマネスク」と書かれていることから、違うシーンなのかもしれない。

しばらく物語が進行したあと、
さらに傘のもつ意味が明確にされるシーンがある。

(P121-127)
生前の立花礼子の回想シーン。
雨の中立花の原稿を受け取りに来た塩澤が、
喫茶店を出るなり自分の背広で原稿を包み、
自分の体は放っぽりだして原稿の上にだけ傘をさす。

ここで傘のもつ意味が、
仕事や出版社ではなく、
「愛する漫画を守りたいという気持ち」だということが判明する。

つまり、傘が飛ばされたのは、
仕事や出版社との別れ
というよりもむしろ、
編集者を辞めることで「愛する漫画を守ること」にたずさわれなくなる、という意味に焦点が合っていたことがわかる。

ちなみに仮に傘が飛ぶシーンを全カットしたとしても、
物語自体の進行の妨げにはならない。

ただこういった描き方をすることで、
塩澤の中にもやもやとした心情があることが示唆される。

それは、(ああ、飛んでいってしまった)と傘を見送ったり、傘が壊れたり、誰かが拾い上げたりするのではなく、
飛ばされた傘を塩澤が追いかけるからだ。

自分の愛してきた漫画を守るという行為(編集者としての矜持、楽しみ、生き方)と別れることを惜しんでいることがわかる。

漫画というのは実写映画などと違って、
全てが人の手によって描かれる。(自分は漫画家業は知らないのでたぶんですが)
意図しないものが偶然に描かれたりはない。
そのため、セリフやナレーションのないシーンにも必ず意味が込められていると自分は思っている。(なんとなく描いちゃってる系の作家を除いて)
作家の中にある言葉で伝えられない何かを受け取るためには、
絵→意味 のように逆変換するような作業が必要であると思う。

■野球ボール、パチンコ玉(長作の心情)
(P72-73)
長作がバッティングセンターでボールを気持ちよくかっとばすシーン。
「ホームラン」と音声が鳴りご満悦の表情。
その後、サイン会でファンにサインする。(表面上仕事は上手く行っている)
(P74-76)
パチンコ店で大当たりを出すシーン。
「へへ、いいぞォ…」とご機嫌だが、
大量のパチンコ玉が吐き出されて落ちてくるのを見ているうち、
こぼれおちた涙一粒のカット。
長作は顔を抑えうつむいて泣く。
とても好きなシーン。

(P95-97)
ふたたびバッティングセンター。
長作は、自分を師と仰ぐ若い漫画家の青木と来ている。
「練習しろ、練習。」
「詭弁だね。己の鍛錬を放棄して、環境に文句言ってんだ。」
と青木に説教しながら、相変わらずホームランをかっとばす。
一方青木は、一球もバットに当てられず空振りをしている。

以上から考えるに、
「玉」は、長作の中で「結果、仕事、成功」のメタファーである。

まだ芽の出ない青木はボールを打つことができないが、
研鑽を積んだ長作はホームランを打つことができている。

ただし、結果を出すことにフォーカスするだけで本当は自分の描きたいように描けないでいる長作には、
「結果」というボールだけが大量に打ち出される様を見て耐えられず、
たまらなくなって泣き出してしまう。
自分はこう受け取りました。

(P74-76)は、ぱっと見「自分のやりたい仕事に真剣にならないでパチンコなんか打って、オレ、情けねえ…」と泣いた、とも捉えられるかもしれないけど、
執拗に玉のメタファーが出てきたことで整理して考え直すことで、
長作の心の動きはそんなに単純なことではないとわかる。

■水玉・太陽と、きらめき (木曽かおる子と、その息子アキラ)
(P189-214)
この第8話では、水玉模様と太陽など、丸い絵が頻発する。

木曽かおる子は、おそらく水玉(丸模様)が大好きな女性である。
かなりさりげないので気づきにくいが、
・弁当敷き
・エプロン
・靴下
・上着
・パジャマ
など、玉尽くしである。
これだけたくさんあるにもかかわらず、一読目はまったく気がつかなかったほどさりげなく配置してある。

木曽かおる子は、漫画業をおそらく引退し、スーパーでレジ打ちのパートをしている。
近所に現れた誰かも知らない俳優に興奮して世間話をするような、普通のその辺にいるパートのお母さん、といった感じだ。

塩澤からもう一度漫画を描かないかと誘いを受けるも、
「しばらく、考えてみてもいいですか?描けるかどうか…」と回答を保留する。

木曽かおる子の息子(アキラ)はちょっと変わっている。
学校にも行かず、「南米ペルーのどこどこで発掘されたクリスタルが編み込まれている」とされる、黒地にキラキラが編まれたうさんくさい手袋を、アキラが稼いだバイト代3万円をつぎこんで買って嬉々として母に報告している。

かおる子と夫は普通の大人の理性をもって、
普通に気味悪がったり、「まあ一度や二度迷走することはあるよ…」と片付けている。

この後のシーン、
(P202-204)
かおる子はスーパーで買い物からの帰り道で、
高台から大きな夕日を見つめる。
自転車に跨りながらも、ふと漕ぐ足を止めて見入っている。
夕日は既に半分沈みかかっている。
一方、街には3〜4つキラキラとした反射が描かれている。
夕日が沈むにつれ、夜にはキラキラとした星が輝いていくと予想される。

このシーンを見て自分は
「かおる子が本能的に好きと思える丸いもの」が沈みゆくこと
「息子アキラが好きなキラキラが輝き出す」ことが対比として描かれていると感じた。

「好きなことから目を背けて生きている自分」と、
「好きなことに一心不乱な息子」の対比と感じた。

この2-3ページのセリフ無し情景のみのカットのあと、
かおる子は文房具屋で漫画道具一式を揃え、
漫画に没頭することになる。

漫画に愛を持っている塩澤からのお願いにもハッキリとした返答をできなかったかおる子が、空の夕日を見て何かが湧き上がるのを感じるシーン。

普通の漫画家であれば、別の誰か(家族や同僚など)からの言葉が投げかけられたり昔の塩澤からの言葉みたいな回想があったり大事な過去作品を読んだりなどもっと何か印象的な出来事が起き、それがトリガーとなって人物の心が動く、といったストーリーを仕込みそうなところだけど、
このさりげないメタファーと情景描写のみを使って人の心の変化を美しく描き出す松本大洋先生は本当にすごいと思う。

というより、
人の心が動くのは、なにも言葉や印象的な出来事によってのみではなく、
ふと風景を見たり匂いを嗅いだりものに触れた時のような何気ない抽象的な出来事がきっかけだったりするものだと自分は思っていて、
それをストレートにあるがままに表現した結果こうなった、というような気がする。

松本大洋先生の漫画は、心情・人格などをセリフやナレーションではなく、
背景や物の絵で巧みに表現することが多い。

深読みせずともそれ単体で美しく見ていてとても楽しいものになっていると思うけど、さりげなく描かれた絵に込められた意味がわかった時、その美しさは一段と増すと感じたので、メモで残しておいた。

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