「努力は報われる」の本質
「努力は報われる」
多くの人がこの言葉を信じ、挑戦を繰り返すだろう。
しかし、この「努力」という言葉をもう少し分析しなければ、この言葉を解釈し間違えてしまう。
ということで、今回は私が思う「努力」の定義について紹介しようと思う。
頑張る≠努力
私には大学卒業までにTOEIC950点を超えるという目標がある。とにかく英語は極めておきたいのだ。
しかし、これはかなり難関な目標だ。900点を超えている日本人でさえほんのひと握りだ。でも、私はそれになりたい。
では、どう勉強すればいいだろう。勉強法の例をいくつか挙げてみよう。
さて、皆さんはこの勉強法をどう思う?
「100回書くなんて無駄だ」「いや、私は書かなければ覚えられない」「聞き流すなんて日本語でも覚えれないだろ」「聞くこと自体に意味があるんだよ」「会話が最良だ」「段階を踏んでからするべきだ」
同じことでも人によって適性や価値観は異なる。自分に合った勉強をするのが一番良いことだ。
ではここに単語暗記が得意なAさんがいたとしよう。
Aさんはある日、友人に勧められて単語を毎回100回ずつ書くことにしたとしよう。
おそらく皆さんはこう思うだろう。「暗記が得意ならそんな勉強法は時間の無駄だ」と。
ここで皆さんに二つの問いがある。
①Aさんは頑張っているか?
100回書く行為はすぐに終わる簡単なことじゃない。手は痛くなるし、字も汚くなるし、書いた個数を数え続けなければならないし。そんな苦しい行動を続けることは頑張っていることだと言っても良いだろう。
②Aさんは努力しているか?
「努力は報われる」ならば、この行動は報われるための要素になるはずだ。でもどうだろう、Aさんは100回書きなぐらないと報われないのか?そんなことはない、元々暗記は得意なのだからそんなことしなくても報われはずだ。
つまり、100回書くことは報われるための要素ではない、つまり努力ではない。
つまり、頑張ることと努力することは一緒ではない。頑張ることには「正しい頑張り」と「間違った頑張り」があり、前者のみを努力だと言えるのだ。
「努力は報われ(てから判断す)る」
しかし、例えば、Aさんが自分は暗記が得意なことに無自覚だったとしよう。その場合、Aさんは100回書く頑張りの正誤を判断できるだろうか?もちろんできない。
私たちも同じだ。今の頑張りの正誤なんて判断できないから報われるかどうかなんて分からないというのがほとんどだ。
そんな状況下で日々励み、報われた日が来たとしよう。
私たちは今までを振り返る。あれはやってよかった。あれは時間の浪費だった。頑張りの正誤はそのとき初めて判断できる。
そしてそのとき、正しいと判断した頑張りに「努力」という名前を与えるのだ。
報われたその日、私たちは結果という地点から今までの過程を見渡す。そこから見た景色の全てが努力というわけではないのだ。
「(仮)努力は報われる」が間違い
「努力は報われる」を信じない人もよく見る。しかし、その信じない原因は努力という言葉を解釈し間違えているからだと私は思う。おそらく「頑張る=努力」と考えているのだろう。頑張りには正誤が存在し、報われないこともあり得る。
しかし、私たちが今頑張っていることは努力じゃなく、仮努力なのだ。そして、多くの人々は「努力は報われる」を「仮努力は報われる」と解釈し間違えている。本当は「頑張る≠努力」であり、正しい頑張り、つまり努力だけが報われるのだ。
だからこの言葉を信じられないからといって目標を諦めてはならない。私たちがやっている頑張りが努力なのか間違いなのかは分からない。だから報われるのかどうか不安になることは当然のことなのだ。
でも、ひたすらに色々試して実践を繰り返せばいつか気づかないうちに正しい頑張りに出会えるだろう。そうすればきっと、いや必ず報われる。
私も大学卒業までにTOEIC950点を超えるために仮努力を繰り返す。そして達成したときに、私の努力を紹介しよう。